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作品名:鱗堂家の生き方 作者:宮本野熊

第11回   11
「佳代ちゃんか、お前の好きな子は……」

 予期しない声に正吉ははっと目覚めた。目の前には、父の為吉が立っていた。

「何度も呼んだんだが、返事が無かったから、様子を見に来た。大きな声で、寝言言ってたぞ。そうか、佳代ちゃんか……」

 大学時代、サークルの仲間であった佳代のことは、正吉の家族も見知っていた。一度皆で、家に訪ねてきたこともあったからだ。

「それにしても、よく寝てたな。もう夜だぞ、晩飯だ」

 うたた寝をしていただけのつもりであったが、正吉は、五時間近くも眠ってしまっていたらしい。

 昼の時より、幾分頭も冴えては来ていた。それにお腹も空いていた。テーブルに付くと、いつもの風景があった。父、母、祖母、叔母が既に食事を始めていた。水槽のランチュウも皆の食事風景を見ながら、揺ら揺らと泳いでいた。

 いつも、これと言って食事中の会話はない。仕事の話をする位であるが、今はランチュウも冬眠中である。この日も皆で静かにテレビを見ながら食事を摂っていた。目を擦りながら、正吉がテーブルに付いた時、ランチュウが、水草の陰に隠れるようにして見えなくなった。十四代目為吉は、四百年続く金魚屋の当代だけあってその様子を見逃さなかった。暫く、水草の陰に隠れるようにしているランチュウたちを見ながら微笑んで、何か頷いている様子であった。そして、正吉の方を向いて一言呟いた。

「お前の視線が、恥ずかしいらしいぞ、こいつら……」

 正吉は、茶わんを持つ手を止めて、「えっ」と父を見た。

「えっ、じゃない。お前のこいつらを見る目線が熱いって言ってるんだよ、こいつらが……」

 父が、ランチュウと何らかの会話らしいことをすることは、前から知っているが、具体的にどんな話をしているのかをこれまで聞いたことはなかったし、それに敢えて父も言うことはなかった。

「俺にも、覚えがある。そろそろ、時期かもしれんな。明日、あいつに聞いてみよう。色気づいて、取り返しのつかないことになる前に、始めた方がいいからな」

 母も、祖母も、叔母も父の話を聞くとランチュウと同じように、どこか恥ずかしそうに、目を細め、お互いの顔を見合わせていた。

 父の言葉がどういう意味であるのかを知っているような表情であったが、正吉だけが理解をしていない様子であった。

「なに、それどういう意味?何を始めるの?」

 正吉は、訊ねたが、父は、明日になったら教えてやるからと言ってビールの入ったグラスを持って居間へと行ってしまった。その背中を見送った後、母の方を見てみたが、母は、笑みながらどこか心配そうな表情をしている。祖母と叔母は、少し顔が赤らんでいるようでもあったが、正吉の聞きたいことは何も教えてはくれそうになかった。三人は、急いでご飯を掻き込むようにして食べ終えると、そそくさと片づけを始めてしまった。

 一人その場に残された正吉は、怪訝な表情で箸を進めるしかなかった。水草の陰からはランチュウが見え隠れし、彼の様子を伺っているようであった。

 食べ終わった食器を片付けて、部屋に戻ろうとすると父が、居間から声をかけてきた。

「何も、心配することはない。明日は、めでたい日になりそうだ。今日はゆっくり身体を休めておけ」

 そう言うと

「かあさん、酒を一本つけてくれないか」
と言って、また、テレビを見始めた。

 どういうことなのか、気になるところであったが、今、聞いたところで教えてもらえるわけもないことはわかっていた。正吉は、父に、「わかった」と言って部屋へ戻ることにした。

 部屋に戻ると、裕也たちとの約束どおり、佳代に電話をすることにした。

 彼女と何を話していいものか、わからないところであったが、これまで通り普通に話すことが一番だと思い、彼女と分かれてから皆と飲みに行ったことを話そうと思った。

 ただ、皆で何を話したかは言うこともないだろうし、それこそ、恥ずかしくてあの話などできはしないだろう。

 携帯から聞こえる彼女の声を聞いているだけで、正吉は幸せな気分を感じられた。これまでにはなかった、感情である。話をしながら、時折聞こえる彼女の笑い声は、幸福を運ぶマジナイのようでもあった。面と向ってであれば、彼女のことを必要以上に意識してしまいこんなに話も続かないかもしれない。電話の向こうで、彼女がどんな表情をして、どんな格好で、話をしているのだろうと考えながら、いつまでも、こうして彼女の声を聞いていたいと正吉は思っていた。

 一時間位は、そうして話をしていただろうか、最後に、食事の約束をして、電話を切ることになった。

「電話してくれて、ありがとう……」
と佳代が最後に言った言葉が、いつになく愛おしさを感じさせるに十分な響きを持っていた。

 その夜、父の「ゆっくり身体を休めておけ」という言葉とは、裏腹に正吉の身体には悶々とした血が流れ、深夜を過ぎても目が冴えてしまい、結局寝付いたのは夜明けに近い時間になってしまっていた。


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