男性自身には、別の人格が備わっているとよく言われることであるが、反応こそ違えども、女性にも同じことが言えるのかもしれないと、なつみはまた、余計なことを考えてもいた。
「なんか、変な空気になっちゃったけど、何の話だったっけ……」 マスターは苦笑いをしながらも、大人の対応、お店の対応をすることに頭が漸く回り始めた。
「自分に正直になれってことだったような……。正!お前が佳代のことちゃんとしてあげないから……。変な話しになっちゃったんじゃん……」 といいながら、相槌を求めた裕也の目線がなつみの腰に落ちたことを彼女は見逃さなかった。
「ふ〜っ。もう、祥子が、変なこというから。なんかみんなおかしくなってる。とにかく、正ちゃん、佳代に電話してあげてね。もし、二人でご飯とか食べるの恥ずかしいんなら、私たちも一緒に行ってあげるから。佳代は平気なフリをしてたけど、正ちゃんのこと本当に好きみたいだよ。二人がうまくいってくれたら、皆、嬉しいしさ……」
男女の仲を取り持つことは、中々難しい。幼馴染と言うわけではないにしろ、それまで特に異性として意識しなかった二人には、一歩を踏み出す勇気に欠けるものがある。まして正吉の気になるところは鱗堂の伝統、仕来たりである。付き合うにも作法が謳われているほどのものであるから、簡単に「付き合って」と言い出せないでもいた。しかし、友達から異性へと移行する切っ掛けは人それぞれ、正吉は、仲間の後押しを受けて佳代と付き合う切っ掛けを少なからず掴むことになった。
その日は、その後、雰囲気も戻り、皆で昔話を肴に夜明け前まで飲み明かした。
翌昼、身体に残る酒に意識を朦朧とさせながら正吉は、目を覚ました。明け方まで、飲んで、タクシーで帰ったことは憶えている。家に着くと、急に酔いが回り、直ぐにトイレに駆け込んで吐いたところまでは、記憶があるが、その後、どうやって部屋まで辿りついたのか記憶になかった。酒と胃酸臭い息を吐きながら洗面へ行って口を濯いだ。鏡に映る顔を見ると瞼が浮腫んで水泡眼のようにも見えた。金魚の目にくっついたフヨフヨの水泡である。
「ふ〜」 とため息をついていると、いつの間にそこに来たのか父の為吉が背中から声をかけた。
「お前、かなり飲んだみたいだな。あの調子じゃ、女の子と一緒ってことはなかったみたいだな」
「うん」
「まぁ、飲む時は、あれくらいにならなきゃ。ワシが若い頃は、飲む時はいつも死ぬ気で飲んだもんだった。友達と飲むと、どちらかが倒れるまで飲んだな。お蔭で、仕事で飲むときに酒で粗相をすることはなかった。飲めるからって別に偉いわけじゃないが、酒は飲めないより飲めた方がいい。まぁ、頑張れ……」
と相変わらず、意味不明な話を始めた。
「ところで、お前、彼女を連れてくるって話はどうなった。年が明けてランチュウの交配の時期になる前に、一度、連れて来いよ。かあさんもばあさんも楽しみにしてるから……」
それだけ言うと、 「交配、交配っと……」 と呟きながら、玄関へ向って歩いていった。
―なんて、能天気な登場と退場だ。
正吉は、嗚咽をしながら歯を磨き考えていた。
―それにしても、昨日、祥子が言ってたことって本当なんだろうか……
正吉には、あの言葉が気になっていた。
顔を洗い、少しだがスッキリしたところで台所へ行くと正吉の分だけ昼食が残されていた。父は、今、出掛けていった。母と祖母の姿は見当たらないところを見るともうどこかへ外出してしまっていたのだろう。
固形物は、喉を通りそうもないので、味噌汁だけを温めて飲むことにした。
テーブルの上には、幅一メートル高さ三十センチの観賞用の水槽が置いてある。種には使えないが、観賞用としてなら申し分のないランチュウが広い水槽の中二匹飼われている。この水槽は、ヒーターで水温管理をしているため季節は関係なく、ランチュウも冬眠することもない。オス、メスの番いであるが、順育ではないため交尾も産卵も行われない。ここの二匹は、柄が夕焼け雲に陽の当たったように淡く、ほのぼのと赤く、癒しの空間にはもってこいであるため父がこうしておいたものであった。テーブルに肘を付きながら眺めるには丁度よかった。
味噌汁をすすり終えると、正吉もそうしていた。
二匹のランチュウが、水槽の中を尾ひれをゆらゆらとくゆらしながら、泳ぐ姿を眺めていると時の経過までが、ゆったりとしてゆくようであった。こちらに向って泳いでいるかと思えば、急に踵を返して向こうに泳いでゆく。そうすることに何の意味があるのかはわからないが、水槽の中のランチュウは毎日同じような動作を繰り返していた。
その後ろ姿を眺めていた時、祥子の言葉が再び思い出された。
―女性ってこんな風になっているんだ…… と思った瞬間、ランチュウの頭が、振り返ったように見えた。
そして、「スケベッ」と言ったようにして、水草の向こうへと姿を消してしまった。こうして、二匹とも、正吉からは、姿のよく見えないところへと隠れてしまった。
―世の中には不思議なこともあるもんだ。こいつら、人の考えていることがわかるようにもみえる。
正吉は、ランチュウの見えない殺風景な水槽をしばらく眺めていた。水槽の中の二匹は、彼の視線に不穏な気配を感じたと思われるくらい、どれもこちらへ出てくる様子がなかった。しばらくそうしていたがランチュウの泳いでいない水槽をただ眺めていても仕方ないと思い彼は部屋へ戻ることにした。
ベッドに横たわり、天井を見上げるとまだ酒が残っている所為か目の前が歪んで見えてきた。目を閉じてもその感覚は治まらない。頭を横向きに動かすと、脳もそれにつられて波打つようにも感じた。
―こんな時に、誰か傍にいてくれたら…… と目を閉じ、思っていると、佳代のことが以前にも増して愛しく感じられてきた。
「佳代が居てくれたら……」 と思わず呟いていた。
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