彼女の日記に従いその生命の深遠さに触れることにする。
始まりは、始まりを自覚するところから始まる。彼女の、タイムキーパーとしての使命は二千年前に遡るところからだけのものではない。それよりも遥か以前、彼女の例えによると私達が私たち自身の始まりを自覚できないのと同じ理屈なのだそうだ。
私達は、私達自身でいつ生まれたのかが分からない。両親であったり、親類であったり、私達がその生まれた時を知らされる存在を持っているから数値的に始まりを知る、いや、知ったように感じるだけで、実際にはいつからその生命の根源が始まったのかを知る人はいないということである。それは、細胞からなのか、血液からなのか、とにかく生命を形作るパーツが運命によって結び付けられるところからはじまる。それを自覚することは人には不可能である。しかし、その不可能と思われるごく微小な存在にも記録という記憶が刻みつけられているとしたらどうだろうか。始まりは、六十兆の細胞の働きを通じ、一つの細胞へと記録が受け継がれてゆく、それが、精子であり、卵子である。記録は、融合と分裂をそして誕生と死滅を繰り返しながら延々と続いてゆく。その一つ一つの細胞に意志があるとしたら、どうだろうか。その数だけでも、神域に及ぶものとなる。私達の生きていると言うことは、細胞の一つであり、そして、その積み重なる肉体として生きるに通じるものがある。
つまり、私達が人間として私達を自覚しているものが、もしかしたら、別の次元からすると一つの細胞なのかもしれないということである。また、私達の肉体の中に、空を見上げて広がる宇宙があるように、私達自身の内に宇宙がある。それがどの次元であったとしても、私たち自身からするとそこには、大きな私にも、また、小さな私にも確実に意志がある。それを知らなければならない。今、私達が世界と呼んでいる存在(アルというもの)は同じ大きさの意志の疎通が是非に係わらず取ることのできる存在であると言うことだけである。そのことに大きな意味はないが、また、同時に大きな意味を持っている。その意志の流れ、また、アルのあるということの流れを保つことがタイムキーパーの使命であるということである。それは、アルということを自覚することに過ぎない。しかし、その自覚をすることがとても難しいことなのである。
地球の存在は、私達がその存在を自覚する以前にある。進化とよばれるその内に育む生命の変化を見つめながら、内なる変化を地球が変えることは出来ない。小さな意志の塊が、大きな意志を操ることになるからだ、また、その逆も然りである。小さな意志の行動が大きな意志の流れとなり、その大きな意志が小さな意志を排除することもある。それを淘汰と呼ぶ。タイムキーパーの役割は、その大きな意志と小さな意志の調和を保つことであるという、人としての見地から。
存在には調和というバランスを保つことが必然である。その必然が崩れ去った時、大きな意志が小さな意志を、そして、小さな意志が大きな意志を排除する方向に働く方向へと自然と導かれる。
哲学的であり、宗教的であるため私の頭で理解することは困難を極めるが、アルということのアルが由縁は、幸い感覚的に不理解を超えた自覚として捕らえることが出来た。“アルと自覚した時点からアル“のであろう。
タイムキーパーとしての、視点はどのように世界を見るのであろうか、それは、医者が患者の病んだ患部を見るだけではなく、体全体の健康状態を確かめるのに等しいといえると彼女は記述している。それも、掛かり付けの医者が患者の生まれてから死ぬまでの変化を見ているのと同じ状態であると。調和に向かう変化、流れはそのままに、そして、調和を乱す変化、流れに対し警告を行う。しかし、その警告は、一つ一つの細胞に対して行うのではなく、大きく人を対照にして行われる。私達は、一人一人では意味を持たない、が、また、大きな意味の断片を担っている。それぞれの存在意義は、とても小さいが同時にとても大きな意義をもっている。それを、運命と呼んでもよいものであると彼女の日記には記されている。
頭痛がするときアスピリンを投薬する。それは、一塊の細胞に作用するだけに他ならない。タイムキーパーは、細胞の働きを調和へと導くために様々な仕掛けをする。地球に流れる時に調和を導くために。植物は水のないところでは育たない、また、交配の出来ないところでは死滅する。動物が生きるも然り、そのすべてを見渡して、調和へと導くそんな稀有でデリケートな見張りそれがタイムキーパーなのであると彼女は締めくくっている。
結局、私達の存在とは如何に儚いものかと感じざるを得ない。
何千年というときを超えて存在する魂。肉体ではありえない存在。それが本来は総ての魂に対して起こっている、ただ、それを自覚していないだけであるとしたら。なにかとても大きな生きるという意味を彼女から教えられた気がする。
しかし、相変わらず、編里に通じるカッコとした手がかりはまだ見つからない。マリの日記を読み進めれば進めるほどに彼女の依頼からどんどん遠ざかっていくような気がしてならない。迷宮に迷い込んでゆく心境である。頭を休めるため、その日記から遠ざかる事にしよう。
そうは思ってみたものの、これからの調査をどうしたものかと考えさせられる。彼女の住まいを訪ねる約束の日までにはまだ時間がある。といって無意味に時が過ぎるのを待つことには、耐えることができない。
そこで、急ではあるが、彼女の屋敷のあるイギリスへ飛ぶ事にした。彼女の日記からすると彼女の血筋をたどる事で何かがわかるかもしれない。隔世的に繰り返される彼女の人生をというより魂の歴史をたどる事で。
イギリスへは、長期の出張になるだろうと思われた。上司にその旨を伝え、少し早いが、オフィスを後にした。家に戻ると、妻と息子に電話を掛け仕事で海外へ出張しなければならないことを告げた。二人とも、私を気遣うようにして「気をつけてね。」という感情をもって色々な話をしてくれた。そして、電話の最後に「おみやげは・・・」と帰国の約束をするかの言葉を忘れずにおいた。仕事の詳細を聞かれることは無かったが、二人ともなにか大変な仕事を私が受けていることを察しているようであった。
彼女から与えられた編里の捜索猶予期間は後残り百二十日となった。この後、どのような運命に私が気づかされることになるのか、その時点では知る由もないが、ライフワークを見つけることができたことを感じ、次の日、私はNagoyaを後にし、イギリスへ向けて出発した。
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