月曜日。
宮本は、昨夜から殆ど眠ってはいなかった。妻を抱いた後、しばらくウトウトしたくらいで殆ど眠る事はなかった。宮本は、それでも平気だった。妻は、今日の朝出かけると夜勤がある。しばらくは、会うことができないと思うとずっと彼女の寝息を聞いていたかった、灯りの点いていない部屋の中で眠る彼女のシルエットを眺めていたかった、ようやく朝陽が差し掛かった頃に見られる彼女の無防備な寝顔を確かめたかったからであった。目覚ましが、鳴る少し前、宮本は妻の髪を撫でながら起こす事が好きであった。耳元で、彼女の名前を呼び、自分の声に答え「うっぅ〜」と言って腕を伸ばし背伸びをし、「おはよう」と言う声に愛しさを感じていた。
「朝だよ、もう起きなきゃ。おはよう、……明日香」
宮本は、いつものように彼の妻を起こしていた。そして、昨夜のように、二人でシャワーを浴びた。宮本は、妻の身体を丹念に洗った。染めたてのシルクを流水に晒し、余計な色の滲まないように目で一々肌理の一つ一つを確認するように彼女の身体に丁寧にシャワーを流していった。そして、一点だけ染めの絞りのような赤い吸い込み模様を乳房の下に印した。
彼女は、夫のするままに身を任せていた。そうする夫のいじらしさを可愛く感じていた。その場所はホンノリと血色に浮かび上がっていた。二人は、再び抱き合った。 上気した身体を拭き終わると、明日香は急いで支度をして出かけた。彼女の勤務する総合病院へと急いだ。彼女は、夫の体の硬さの未だに彼女の中にあるように感じて、足を思うように運ぶ事が出来なかった。幸せな、可笑しさが、彼女の笑窪から零れていた。 宮本は、妻を送り出すと書き終わった原稿を封筒に詰め出かけていった。
博之は、ベッドの上で目を覚ました。余程、疲れていたのかもしれなかった。顔を洗うとテーブルの上にあったタバコを手にとっていた。宮本が忘れていったのだろうと彼は思った。彼も以前は吸っていたが、半年ほど止めていた。明日香と付き合い始めた頃であった。彼女が、看護師であったことがそうさせたのかもしれない。彼女は、タバコを吸わなかった。テーブルの灰皿を引き寄せ、彼は久しぶりにタバコの煙を吸い込んだ。貧血で意識の遠くなるような、感覚があった。彼は、タバコを消すとベッドの上で壁にもたれ膝を抱えていた。原稿を書き進める気にはなれなかった。
カップに残っていた覚めたコーヒーを啜った。それでも喉が渇いていたので、キッチンへ行き冷蔵庫を開けた。見覚えのない弁当が入っていた。『宮本か?』と彼は思った。彼は、テーブルにある原稿の端に宮本が書き残していたメモをまだ読んではいなかった。
お茶と弁当を手に部屋に戻ると原稿用紙の隅に走り書きを見つけた。
『やっぱり宮本か……』
彼は、親友の宮本の心遣いが嬉しかった。しかし、土曜日宮本がこの部屋を出た後、彼はここから出てはいない筈であった。もしかしたら、出たのかもしれないという曖昧な記憶しかなかった。頭痛と吐き気が収まらず夜風に当たりに表に出たような気もしていた。足元をふらつかせ、ベッドに倒れこんだことは憶えていた。
弁当を手にすると彼は、それまで忘れていた空腹感からか手が小刻みに震えてきた。いそいでラップを外し冷えたままの二日前の弁当を彼は掻き込んでいた。空腹が満たされると、改めて、宮本のタバコを手に取った。その時のタバコは美味かった。
いつもなら女のところへ行ってきたと宮本が来る頃であったが、その日、宮本が彼を訪れる事はなかった。待っていたわけではなかったが、決まっていたスケジュールをドタキャンされたときのような失望を感じないではいられなかった。宮本の家に行くという手もあったが、彼はそうしなかった。恐らく、宮本はいないだろう。もし、宮本が彼のところへ行くと言って、女のところへでも行っていたとしたら、彼には宮本の奥さんに対して弁解の言葉をもっていなかったからであった。
時計は一時を廻っていた。授業の用意をして部屋を後にした。今日は、彼女が教室にやってくる日ではなかった。ただ時間の早く過ぎてもらいたいという気持ちを彼は抑えることができなかった。それでも、決められたカリキュラムをどうにかこなしいつもよりほんの少しだけ早めに授業を切り上げた。
帰宅してベッドに横たわった。
部屋からは人の気配が感じられなかった。
彼と言う人がいるにもかかわらず、彼自身の気配さえ感じることができなかった。
彼は、ただ天井を見つめていた。眠気さえ感じることはなかった。深夜になり、仕方なく原稿を書き始めようと思った。『妄想』というタイトルの小説であった。もうこの世にはいない文豪が、売れない小説家である主人公にとり憑き、小説家としての覚悟を迫るという内容であった。大方のストーリーは出来上がっていた。売れない小説家が、売れないままに誰からも見放され、孤独に死んでゆく。亡骸の脇には、死の直前に書き上げられた原稿が見つかるが、それは売れない小説そのものであった。だが、その小説家は、自身の人生を賭した仕事をやり遂げたとでも言わんばかりにその死の顔に安堵の表情を浮かべていた。という内容である。彼は、その小説家を彼自身の姿に重ねていた。その小説は、彼の行く末を暗示しているものと思っていた。彼は、このストーリーを書き上げなくてはならないと思っていた。しかし、彼は、今、彼女に満たされ始めていた。明日香に心の隅々までを占められていた。孤独な死よりも、満たされた心を模索し始めていた。彼は、明日香に会いたかった。宮本にも会いたかった。宮本に会って、明日香のことを話し、『復讐はもうよそう、本当は、僕達はこういう温かいものを求めていたに違いない。愛を書こう……』と言いたかった。宮本は、反対するかもしれない。いや、宮本は彼のこの心境の変化を喜んでくれる筈だ。彼は、葛藤していた。彼自身と葛藤していた。話す相手のいないままに心が定まらず揺れていた。目の前にいない、見えない親友と恋人に語りかけるように彼は、懸命に原稿に向かおうとしていた。
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