日曜日。
明日香が目を覚ましたのはもう夕方近くになっていた。この日は、非番でゆっくり寝ていられた。夫の宮本は、書斎にいるようだ。呪文のような呻き声が聞こえきた。キッチンには、あの人が一人で済ませた食事の皿が二食分汚れたまま置いてあった。夫は、起きて一人で食事を取り、朝から仕事をしていたらしい。「あぁ……」と呻く声がまた、聞こえてきた。朝から原稿用紙に向い愛を囁き、抱擁し、愛撫し、そして、果てている。これが、夫の仕事であった。夫は、原稿に向かい声を上げて絶頂を迎えていたのだ。彼女は、夫の体力に関心をしていた。昨夜、執拗な夫の求めに応じたにも関わらず、今、夫は再び自らの手で……。これが、夫の仕事のやり方であった。彼女は、思っていた。夫のように自分の書いた作品に自ら感化され突き上がる欲望を例えそれがマスターベーションであろうとも発散しなくてはならない程に、男の性に対する欲望とは際限のないものなのだろうとかと思っていた。夫の小説にある女性は、誰も皆、美しかった。天使であり、聖母であった。夫は、その美しい、穢れのないはずの女性を男の力によって淫らな肉体に変えていった。どうにかして、征服しようとしていた。しかし、夫の試みは、最後には例え小説の中であろうと成功することはなかった。夫は、煩悶していた。夫は女性に負け続けていた。どうにかして、女達を意のままに操ろうとしていた。夫の試みは、これまで敗れ続けていた。このように男の負ける姿が、小説には受けているのかもしれないと彼女は感じていた。本当の夫の姿も小説に登場する男と同じであった。これが夫の言う夫の過去に対する復讐の一端なのであろうと彼女は夫を見守り続けていた。無意味な復讐の心から早く立ち直り、過去を過去のものとして本当の彼の姿を見せてもらいたかった。そのために、彼女は、夫のどんな恥ずかしい求めにも応じていた。彼女の夫に対する母性なのか、女性なのかはわからなかった。ただ、そうしなければならないという感情が消える事はなかった。彼女は、すべての行為の後、夫の見せる、子犬が身を小さく包めて母の懐に抱かれ安心して眠るような表情が好きであった。夫のその様子を見ていると愛しく、彼女は母犬が子犬の頭を舐めるようにして夫の髪を撫でていた。彼女は夫を心から愛していた。
宮本は自宅の書斎で、小説を書き終えていた。満足のできるものではなかった。これまでも満足のゆく小説など書けたためしはなかった。『自分は負けている、未だに負けている……』と彼は頭を抱えていた。小説の中に登場するどの女にも、実際の女にも、妻にさえも、そして自分にも。どのようにしても、負けてしまっている。宮本は悔しかった、苦しかった。小説を書こうと思った動悸、過去へのそして周囲への復讐を果たすべくもない自分自身の弱さに懊悩していた。原稿用紙に転々と撒き散らされた自身の血から湧き出た白い痕跡を恨めしそうに見つめていた。父への復讐、母への復讐、親類へ、友と呼ばれる人たちへ、女へ……。自分以外のすべての人への復讐が、未だに果たせないでいる自身に焦燥を感じていた。『……、自分以外のすべての人へ……』と思ったとき、『いや、違う。博之だけは、違うんだ。あいつだけは、仲間。親友だ。誰よりも、何よりも大切な奴だ。もしかすると、いや、絶対に俺よりも俺自身よりも大切な親友だ』と思考を再びリセットにかけた。二人して、寄り添い、泣きあったあの頃が思い出された。二人を除く、すべての人への復讐……、そう思いかけた時、宮本にはもう一人復讐相手から除かなければならない妻がいたことに気づいた。博之に対するほどではないにしろ、自分は妻を愛している。博之の次、自分自身の次かもしれないが、それでも愛しているには違いない。彼女は、自分がどんなにしても最後には、優しく抱きしめてくれる。『そうだ、自分は今博之と彼女のお蔭でこうして生きていられるんだ』と考えると宮本は髪の毛が小さくゾワッと逆立つような感動を覚え、目の潤んでくるままに感情を放り投げた。宮本は、泣いていた。自らの内から吐き出された飛沫の散った原稿用紙に突っ伏して泣いていた。
シャワーを流す音が聞こえてきた。妻が目を覚ましたのだろう。宮本は、赤く腫上がった目元を拭いゆっくりと立ち上がった。そして、バスルームへと向っていった。
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