彼は、宮本が大好きであった。宮本も同じ気持ちであると信じている。これまでの関係を振り返っても疑う余地などどこにもなかった。彼は、宮本と過ごす時間を大切にしていた。二人一緒になって、なにか出来る事がないものかといつも話し合っていた。ただ、ありきたりの仕事ではない何かを求めていつも話し合っていた。そして、いよいよ大学を卒業する事になる年、彼が留学から戻った時。宮本が、「二人して小説家にならないか……」と持ちかけてきた。今では、笑い話にすることもあるが、少年期のつらかった思い出を書いて、親に恥をかかせてやるんだと宮本は言った。そして、そのお蔭で誰からも認められる作家になれたと今度はこちらが力にものを言わせて躾けてやるんだと言った。鬱屈した少年時代を過ごした二人にはうってつけの仕事のように思われた。それから、就職活動などせずただ、書くことにのみ時間を費やした。金がなくなればバイトをした。余裕ができると小説を書き投稿したり、出版社に持ち込んだりした。しかし、二人の書くものは、陰惨で心の膿を搾り出すような内容ばかりで、日記に似た告白文に過ぎなかった。何も、主張がなかった。誰かを呪うための呪文に似ていた。
書いても書いても、誰にもどこの出版社にも見向きもされなかった。それでも二人は書き続けた。大学を卒業してからも、書き続けた。彼と宮本は、年と名前が同じであるだけではなく、生い立ちも似ているためか性格も良く似ていた。二人は、本当は双子の兄弟ではないかと考えたこともあった。そんな二人であるが、一つだけ違っていたところがあった。女性に対する接し方であった。宮本は、女性に対し冷酷なところを持っていた。身体を弄ぶ事はするが、気持ちを許すことはなかった。一度に何人もの女性と付き合うことも平気で出来た。そんな中、宮本は一人の女性と関係を持った。彼女は、妊娠をした。宮本は、女性よりも子供の出来た事が嬉しかった。そして、宮本はその女性と結婚をした。お金もなかったので式も挙げてはいない。ただ、籍を入れただけの結婚であった。彼も宮本を祝福した、我が事のように祝福をした。たいそうな事はできないが、せめてお祝いの席を設けようと彼は、宮本に提案したが宮本はそれを頑として受けなかった。それでもと言っていた矢先、彼女が勤め先で転んでしまい流産をしてしまった。それでお祝いは本当にできなくなった。宮本は落胆した。籍を入れた彼女とは一緒に暮らしているらしいが、他所にも女を作っていた。宮本はそのことを話さないが、彼は気づいていた。彼は、宮本の奥さんともまだ顔を合わせてはいなかったので、彼女には少し申し訳ないと感じていたが、それ以上の感情を抱くことはなかった。ただ、宮本は、彼の子供の流産を境にして、そのペンの向きをアダルトの方へと向けはじめた。「所詮、人間の悩みの原点は性にあるから……」というのが宮本の主張であった。彼も彼の幼いころからの経験上、そう考えない事のなかったでもない。しかし、彼は、まだ女を知らなかった。二十代も後半に差し掛かろうとしていた頃の事であった。彼は、宮本の主張の全てをは飲み込むことができなかった。そして彼は、宮本の書く小説でのみ女を学んでいった。宮本の描く女は、動物的であった。宮本の見る女は、情感的であった。宮本の知る女は、軽薄であった。そして、宮本が求めている女は、母性と女性のバランスの上に立っていた。彼は、宮本の描く女性が好きであった。宮本にとって女性は、処女のように穢れを持っていてはならなかった、聖母のように慈しみを持っていなくてはならなかった、また宮本がどんなに淫らな行為を求めてもそれに応じ最後には強く抱きしめて果てる男の身体を強く抱きしめなくてはならなかった。彼は、いつからか宮本の描くこんな女性を求めるようになっていた。次第に、宮本の官能小説は世間に受け入れられるようになっていった。
「博之、お前もこういうものを書け」
宮本は、言ったが、その時、未だ女を知らなかった彼には出来そうになかった。彼は、相変わらず、呪文を書き記していた。
いよいよ生活に行き詰まりを深刻に感じ始めたとき、英会話講師の募集に応募をした。ようやく糧を得る事が出来た。空腹に失われかけていた負のエネルギーを取り戻すことができた。これから思う存分に書いてゆく、鬱積した陰鬱で悲惨な過去を曝露して、自身の恥も親の恥も誰の恥も何もかも明らかにしてやると思っていた。 そんな時、彼は明日香と言う女性と出会った。先生と生徒として出会った。何度か食事をし、会っている内に彼は彼女を心に受け入れるようになっていった。宮本の小説にあるように彼女を求めたいと思うようになっていった。知り合って半年近くが経ってから、彼は、彼女に抱かれていた。初めて、女性の身体を知った。それから彼は、彼女を手放す事が出来なくなった。彼は宮本のように、奔放にはできなかった。彼は、彼女にのみ女性を感じていた。彼は、彼女をのみ唯一の女性と認めていた。彼女の気持ちも同じであると信じていた。一週間のうち、会うことのできる日は決まっていた。その日意外に会うことは殆どなかった。それは、彼女の仕事が、看護士であって、彼女自身にもどうにもならないことなのだと会いたい気持ちを抑えていた。彼女と付き合うようになり、少しずつ、彼は、彼の心が温かいものに満たされ始めてきたことを感じた。すると、もうどうにも暗く病んでいた心を取り戻すことができなくなってきた。そして、あの呪文をどうにも書くことができなくなっていた。
宮本は、彼のこうした心境の変化を喜んでくれていた。誰もが通る道であると教えてくれた。「復讐心だけに頼っていても、心願は成就されないのだ。ただ、我々は我々の受けた仕打ちを忘れてはならない。我々の心の平穏は、我々の過去をあからさまに打ち砕かねば勝ち取る事はできないのだ。我々は、我々の心の内に潜む愛を犠牲にしてまで、成し遂げねばならない仕事がある。それは、望むと望まざるとに関わらず必ずやってくる。その日は近いのかもしれない……」と革命家に似た演説を打っていた。
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