彼の父はよく酒を飲んだ。酒を飲んでは、まだ幼かった彼を殴った。家の中に、平穏はなかった。家計は貧しく、母が手仕事をして細々と生計を保っていた。それでも、父は酒を欠かさなかった。働いた金で酒を飲んだ、母の内職の金で酒を飲んだ。いつの間にか、父はいなくなった。女と失踪(これは後から聞かされた)。父母が離婚して、しばらく彼の生活は親戚に託された。どの親戚も、自分の子でないものを養ってゆけるほど裕福ではなかった。彼は、いくつもの親戚の間をたらいまわしにされた。悔しくて、情けない日々を送っていた。そして、幾つ目かの親戚の家で病気になった。ほうって置かれて、病状が悪化し肺炎になった。 「もう、駄目かもしれない手遅れでなければいいが」 と医者に言われた。 彼は、殺されるんだと内心思った。 死ぬという事がどういうことなのかは、まだ、理解できなかった。ただ、身体から力が抜けていった。 一度気を失い、目が覚めると母が彼の手を握っていた。温かであった。 母の目には、涙が溢れていた。彼に、しきりに「ごめんね、ごめんね……」と謝っていた。彼は、何も話すことがなく、静かに目を閉じた。そして、次に目を覚ました時、彼の身体は奇跡的に回復をし始めていた。 「もうこれからは、ずっと一緒にいようね」 と母が、目を覚ました彼の頭を優しく撫でていた。 虚ろな意識で天井を見つめるとそこは、病院ではないようであった。見覚えのない雰囲気ではあったが、母の顔を眺めると、ようやく安心できるのだと彼は思った。母の後ろから、彼を覗き込む男性の影がぼんやりと見えていた。後に、その男性のことを父と呼ぶように母から言われた。見知らぬ他人が、その時から彼の父として、彼の上に君臨する事になった。新しい父は、酒を飲まなかった。そして、暴力も余り振るわなかった。その点は嬉しかった。しかし、新しい父は躾と証した陰惨な仕打ちに長けていた。
母と新しい父と住むことに決まって、彼が病気をしたあの親戚の家に彼の荷物を取りに行った。彼は、気が進まなかったが、母に連れられてその家に行った。「元気になって、よかった」とその家の主人が言った。彼は、『殺されなくてよかった』と心の中で呟いていた。「色々とお世話になってすみませんでした……」と彼の母はしきりに頭を下げてお礼を言っていた。彼には、母のその姿が不服であった。熱を出して放って置かれ、危うく死ぬところだったことを母は知らないのだと思った。それでも、母の丁重な姿を見ているとそれを今は言うべきではないと我慢した。荷物をまとめて、彼はその家を後にした。荷物の中には、彼が随分可愛がっていた文鳥もいた。この文鳥の世話をその家ではちゃんとしてくれていた。それだけでも、ありがたいことかもしれないと彼は、その家で初めての笑顔を浮かべた。そして、新しい父と言う人の待つ家に大切に鳥籠を抱えて戻っていった。
新しい父は動物が好きではなかった。それでも飼うことは許してくれた。冷酷な意地悪な笑みを浮かべながら許してくれた。文鳥は、家の外で飼うように言われた。冬の寒さが一番厳しい二月の初めのことであった。「そんなことをしたら、凍え死んじゃう」という彼の訴えは聞き入れられなかった。少しでも暖かくなるように鳥籠をタオルで包んで、カゴの中にもタオルを敷いた。それを外気が入らないように、それでも空気穴だけは小さく開けて、ビニールのゴミ袋で何重にも包んで表に吊るした。夜中に心配になって何度も、見に行って、カゴを突付いて文鳥が生きていることを確認した。朝、目が覚めビニールを解くとタオルの上に文鳥が硬く、冷たくなって死んでいた。この文鳥は、彼の替わりに死んだのだ、彼の身代わりになって殺されたんだと彼は涙を流した。こうして新しい父との生活が始まった。
それから、彼は口の利き方が悪いと言われては食事を与えられなかった、部屋の中で遊んでいる時の声がうるさいと言われては頭から氷のように冷たい水をバケツでかけられた、目つきが気に入らないと言われては暗く寒い物置に閉じ込められた。ある夜、母が泣いている声を聞きつけた。彼は、母があいつにいじめられているんだと思い意を決心して、二人の寝ている部屋の扉を開けた。母は、裸に剥かれてあいつに弄ばれていた。目尻からは、涙が流れていた。彼に気づいた母は、目を虚ろに涙を流しながら視線を彼に送った。涙こそ流してはいるが、悲しいための涙でないことは、彼にも直ぐに理解できた。母の両手が、あいつの身体を抱擁していた。彼は、いきなり後頭部を木の棒で殴られたように「あっ」と言う声も上げる事ができなかった。意識もなくなっていた。そのまま、何かに引き摺られるようにして、しかし、確かに自分の足でその部屋から出て行った。しばらくして、誰かが、彼の部屋の戸を開けた。彼は、恐ろしかった。恐ろしくて、見る事もできず布団を頭から被り身動きができなかった。どれ位時間が経ったのかもわからなかった。戸の閉まる音だけが聞こえた。全身から汗が流れていた。危険が去っただろうことにほっとすると小便がしたくなった。部屋から出ることが、怖くてトイレにも行けず窓を開けて膀胱を解いた。
次の朝、あの二人は何事もなかったかのように話しをしていた。食事を終わって、新しい父が、庭の手入れをしていた時、彼は父に呼ばれた。鉢植えの白い石が黄色く変色しているのを見つけて匂いを嗅ぎそれが、小便臭いと言った。「お前か……、どうしてこんな事をした」と問われたが、彼にはその理由を話すことができなかった。彼が黙っていると、父は彼を抱きかかえ彼のズボンとパンツを引き剥がした。「そんなに植木に小便をかけたいなら、かけて見ろ」と言ってサボテンや松の植わっている鉢を選んでまだ何も知らない緊張で小さくなっている無垢な股間に何度も擦り付けてきた。彼は、泣き叫ぶ事しかできなかった。 ただ、離してもらいたくて謝らなければならない理由もわからないまま 「ごめんなさい、ごめんなさい……」 と繰り返していた。 母は、彼の姿を哀れむように縁側から見ていた。母と目が合った時、彼は自分が涙を流していることが悔しかった。母の姿に、昨晩なにもできずに扉のところに立ち尽くしたままの彼自身の姿を重ねていた。それから彼は二週間ほど、おちんちんから出る膿に苦しんだ。彼の母は、彼が新しい父の仕打ちにどんなに悲しんでいる時も「お父さんも一生懸命やってくれているんだから我慢してね。こうして一緒に暮らせるんだから……」というだけであった。 彼は、それでも母の側にいたかった。他人の家で、どんな仕打ちをされても誰も何も言ってはくれなかった。そうされて当然であるかのように冷ややかに彼のことを上から眺めるだけであった。しかし、ここでは少しの苦しさに耐えさえすれば、優しい言葉をかけてくれる母がいた。それだけでも、彼には慰みになっていた。物置に閉じ込められた時には、死んだ文鳥のことを思い出していた。神様に願うよりも先に文鳥に助けを求めていた。「殺されないように僕を助けて……」と暗く湿った物置の隅に蹲りながら手を合わせていた。彼は、殆ど毎日、新しい父から受ける躾に耐えていた。学校から帰ることが嫌で夜中まで、灯りの絶えない商店街の隅っこにあるお地蔵さんの影に隠れていたこともあった。その時は、いつまでも帰らない彼を心配した母が、警察に連絡をして見つけられた。交番には、父と母が迎えにきた。警察の前では、腰を低くして謝っていた父も、家に帰ると「俺に恥をかかせるな」と言って彼を物置にまた閉じ込めた。何度かそんなことを繰り返すと、今度は、そんなに家が嫌だったらと近くの川に連れて行かれボートに投げ込まれ繋いであった縄を解かれ流されたこともあった。どれ位か流された後、ボートは水門で止まり、真っ暗な闇間に彼は水に浮かびながら声も立てずに泣いていた。そこをたまたま夜釣りに来た人に助けられ、警察に保護された。交番には、父と母が待っていた。ボートに乗って悪戯をしている内に繋いであった縄が解けたんでしょうということにされてしまった。彼は、父と母と警察官の言葉に素直に従った。父に恥をかかせてはいけなかった。
ちょうどその頃、彼は宮本と友達になった。彼と宮本はお互いに受けた親からの仕打ちをどちらがひどい目に合ったのかを競うように話した。学校でも、家に帰ってからも毎日のように宮本と彼は一緒にいた。小学校を卒業して、中学はそのまま地元の学校へ進学した。高校も同じ高校に通った。大学も同じであった。大学時代、奨学金をもらい一年間留学をした時を除いては、彼はいつも宮本と一緒に居た。住むところこそ違っていたが、彼と宮本は激しい戦火を命の危険に晒されながら生き抜いた戦友の絆で結ばれていた。
|
|