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作品名:マルチな関係 作者:宮本野熊

第2回   2
二人の間にある信号が青に変わるまで、お互いの視線を交わしながら、無言で会話をしていた。彼は、最近、この時を電車の窓に映る自分の姿を見ている時よりも好きになっていた。作り笑いのようにいやらしくはない微笑みが自然に表情に湧きあがってきた。この時は、彼の心にはくすぐったく感じていた。この時は、彼にはとても大切な時間になっていた。
 信号が、青に変わった。彼女は直ぐそこにいて、もう走る必要もないのに、彼は彼女の元へと走っていた。大きな声を出さなくとも、囁くだけで彼女の耳に彼の言葉が届くところへと走って行った。
「ごめんね、寒かったでしょ」
 今度は、声に出して彼は、彼女に尋ねた。
 「大丈夫、電車、一つ早かっただけだから。今日は、急いでくれたのね」
 彼女も、声に出して答えた。
 「行こうか……」
 という彼の言葉に、彼女は笑窪を浮かべて頷いていた。彼の左腕に彼女が右腕を差し込むと二人は、通りに沿って彼のマンションの方へと歩き始めた。彼の目線は、彼のいつも教室でそうしているように辺りを無造作に、しかし、慎重に眺めていた。
 彼女には、彼のこうした目の動きが可笑しかった。何も見ていないようで、それでいて些細な所までお見通しの目が好きであった。いつも教室で見ているあの目をとても素敵に感じていた。
 彼は、彼女にとって先生であった。先生と言っても普通の学校とは違う。高校や、大学とは違う。英会話スクールの先生であった。それを彼に言わせると、インストラクターということになる。それでも先生には、違いない。そして、今、彼は彼女の交際相手になっていた。週に二日だけ、彼の授業のある日の夜だけにしか会うことはないが、彼女の大切な恋人であった。彼女は、彼とこうして歩く時に幸せを感じていた。草食動物のように辺りに気を配りながら歩いている彼の姿を愛おしく見上げていた。
 
 「明日香、今日は何を食べようか?」
 新藤明日香。これが、彼女の名前である。歳は、彼と同じ三十歳。彼女は、すぐ近くの総合病院で看護士として働いている。そして、彼女は結婚をしている。結婚をしていることを彼女は、彼にまだ話してはいない。それでいいと思っていた。黙っていた方が、彼にとっても彼女にとっても幸せである筈であった。彼には、理解することのできない状況があるのだから……。夜勤明けの日に、英語を習い、彼とひと夜を過ごし、次の朝には彼の部屋から病院へ勤務に向い、仕事が終わると彼女の夫の待つ家へと帰る。週二日、それは彼女にとって彼と過ごすことのできる大切な時であった。夜勤の日も合わせると週四日、家を開ける事になるが、彼女の夫も同じくらい家にはいないのだから、それでよかったのだ。泣きごとのようにして、博之にその事を話してもきっと何も解決はしない。彼との関係は、世間で言う不倫とは違うのだ。彼女は彼を愛している。心から愛している。欺いていることのあるかもしれない、それでも彼女は世間の不倫と言われる行為に溺れるどのカップルよりも彼の事を愛している。それに、夫のことも同じように愛しているのだ。どちらも大好きで、どちらを嫌いということでもない。この彼女の二人に対する愛情は、比較のしようもないものなのだ。その気持ちの中には、どんな打算も計算もなかった。
 「今日は、寒いからお鍋にしようか。すぐそこの韓国料理屋さんなら、まだ開いてるよ……」
 寄り添いながら、暖簾をくぐると店の扉から霧が立ち込めてきた。二人は靄に包まれた。今夜の夢の始まりを告げられたようであった。鍋をつつきながら、一パックだけマッコリを飲んだ。暖かい幸せにつつまれて、二人はまた腕を組み、彼の部屋へと帰っていった。
 二人が交際を始めるようになってから半年が過ぎようとしていた。
 
 火曜日と金曜日の夜には、決まって明日香が泊っていった。水曜日と土曜日の朝、彼女の出勤を見送ると博之は昼近くまでもう一度眠り直した。ゆっくり眠ってから、書きかけの小説に目を通し、推敲を重ねる。新しいストーリーを捻り出す。まだ、原稿がそのまま売れる訳ではなかった。執筆依頼が、あるわけでもない。今の原稿収入は、公募している投稿先をみつけ、とにかく応募を重ねる事。フリーライターをしている知人から、零れ仕事をもらって稼ぐ事。この二つが、彼にとっての原稿収入となっている。だから、この方の収入と言ってもほんの僅かのことであった。


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