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作品名:マルチな関係 作者:宮本野熊

最終回   13
 木曜日。

 明日香は、体調不良を理由に病院を休んだ。朝、病院に電話をすると彼女の上司の婦長は心配した。日ごろ、まじめな彼女の勤務状況からすると余程具合が悪いのであろうと見舞いの言葉を残して、電話を切った。

 彼女の横には夫が、頭を肘で支え添い寝をしながら彼女のことを見つめていた。彼女が電話を置くと、二人は抱き合っていた。昨夜からのようにして抱き合った。これまで、何故そうできなかったのだろうと思うくらいに……。二人は、いつまでも果てることなくお互いを求め合っていた。

 心が融合してゆくことを感じていた。しかし、最後には纏う体が邪魔をして、どうしても完全に一つにはなれないもどかしさを感じていた。二人は、焼けたニ片の鉄の塊が、炉の中でそれまで分かれて存在していた事がなにか幻であったかのように一つになることを求めていた。心も身体も熔け切って本当に一つになることのできないものかと体の底から、心の底から炊き上がる炎に身を焦がしながら、もっと激しい炎を求めるようにして愛し合った。

 宮本は、もう明日香を離れないと感じていた。明日香は、もう宮本を離さないと感じていた。二人は変わることなく、この先も、ずっとお互いを愛し続けるのだと心に誓っていた。


 博之の部屋のテーブルには、一字も進まない原稿が置かれていた。部屋の明かりがその日一日灯ることはなかった。彼のお気に入りの万年筆が、蓋の開けられたまま原稿用紙の升目に逆らうように揺れていた。


 金曜日。

 明日香が、目を覚ますと宮本はベッドにはいなかった。時計に目を向けるとまだ、六時前であった。昨日のことを思うと彼女は体の再び熱くなることを感じていた。気だるさを身体に感じながらも頭の中はこれまでになくスッキリと晴れているようであったことが可笑しくもあり、恥ずかしくもあった。夫は、また小説にこの夜のことを書くのではないかと考えると頬が紅潮するようであった。もう少し、横になっていようかとも思ったが、目が冴えてしまっていた。シャワーでも浴びようとベッドから起き上がったとき、玄関の方でドアが閉まる音が聞こえた。彼女が、寝室から覗くと、玄関の鍵がカチャっという音をたてて閉められたところであった。

 『こんなに早くどこに……』

 彼女には、わかっていた。昨日、一日彼女と過ごしていたため夫は、彼の元へ行ったに違いなかった。博之の部屋へ……。

 夫と博之の間には、友情とも愛情ともそれ以上もととることのできる信頼の感情が占められていた。彼女は、二人の間にあるその特別な感情に嫉妬していた。いらだつ事も、これまでに何度も感じていた。どうにかすると、気のおかしくなる様な、狂ってしまうようになることもあった。しかし、彼女は夫に愛されていることを実感していた。彼からも誰にも何ものにも替えがたい愛情を注がれている事に満足していた。彼女は、夫(宮本博之)を宮本明日香として愛していた、そして、彼(村上博之)を新藤明日香として愛していた。

 『平気で?』

 それは、とても言葉で表現できるようなものではなかった。初めは、身の裂ける様な、砕ける思いに夜も眠る事ができなかった。どうかすると、二人の手の届かないところへと消えてしまいたいと思ったこともあった。どんなに親しい友人にも相談する事ができなかった。ふしだらで不浄で悪魔的な淫な女だと思われたくはなかった。本当はそうではないのに二人のことを思うと本当のことが誰にも言えなかった。彼女は、二人のことを愛していた。二人のそれぞれに異なった愛し方に身を任せる内に彼女の悩んでいた心はいつからか病むという感情を失っていった。二人に対する愛し方の違いに彼女は彼女の中に潜んでいた彼女自身の中にあった別の姿を見つけ出していた。次第に宮本として、新藤としてそれぞれに違った愛し方を表現する事ができるようになっていった。もう誰にも相談する必要はなくなっていた。ただ、こういうことのできる女のいるということは誰かに知ってもらいたいという気持ちがどこかにあった。彼女は、今、そのことを話しても理解されない事を知っている。だから、まだ、自身の胸の内にだけ秘密を留め、二人に対してもこれまでと同じようにして愛情を注ぎ、受けてゆくつもりであった。

 もし、二人が、いつか彼女の心に秘めたそれぞれの愛情に気づいた時には……。

 『いま、考えるのはよそう……』

 彼女は、シャワーを身体に流しながら微笑んでいた。

 『私は悪魔かもしれない……』

 でも、『本当は、悪魔の顔をした天使なのに……。きっと誰もわかってはくれない……』

 忘れかけていた悩みの芽が頭をもたげ始めることを振り切るように、彼女はシャワーのお湯を激しく額に向けて流していた。

 均整の取れた肌理の整った彼女の肌を流れるシャワーの流れが、二人の博之の愛撫のようにして彼女の全身をつたっては零れていった。彼女は、思わず自身の身を抱きしめていた。

 「愛してる……、博之……」

 彼女の脳裏に二人の動きが浮かんでは消えていた。

 
 宮本は、明け方の寒さに身を縮めながら歩いていた。昨夜あれ程、自身の心を、心のすべてを占めていた明日香に対する感情を今は思い出すことすら困難になっていた。彼女の愛情を愛情のすべてを確信したからかもしれなかった。彼女の身体に、温もりに、滑らかな肌に、香りに、表情に、囁きに……、すべてに満足を感じたからかもしれなかった。彼女の自分に対する心には、一点のやましい所の感じられなかったことが嬉しかった。この気持ちを博之に早く伝えたかった。その気持ちが、こんなに朝早く自分を起きさせたに違いないと思っていた。もしかしたら、彼の部屋には彼の彼女がいるかもしれなかった。そう考えると申し訳ない気もしたが、もう博之に会って話さなければならないという感情を抑えることはできなかった。博之に会って、「男が一人の女をずっと愛し続けることなんて、できない」と言った自分の言葉を改めようと思っていた。「それは、女も同じさ……」と言った自分の軽率さを素直に認めて謝ろうと思っていた。

 宮本は急いだ。少しでも早く、博之に会いたいと思って急いでいた。明日香に逢いたいと思って走った時ほどの切迫感はなかった。自信の発見した宝物を本当に大切な友人にだけ見せるために走っていたのであった。喜びを共に分かち合うという希望を胸に抱いて走っていた。

 博之の部屋は、鍵がかかっていた。

 ドアベルを鳴らしても、応答はなかった。それでも宮本は諦めなかった。合鍵で部屋に入った。そこに博之の姿はなかった。白紙の原稿用紙がテーブルに置かれていた。その上には、蓋の開いたペンが置いてあった。ペン先から零れたのか、一点のシミが原稿にはついていた。博之の原稿が、進んではいないことがわかった。

 金曜日の今日、彼は、学校に行かなければならないことを宮本は知っていた。こうして待っていればその内帰ってくるだろうとその部屋で眠る事にした。彼が帰って来さえすれば、起こしてくれる筈であった。宮本は、彼が帰ってきたときのことを楽しみにしていた。そして、近いうちに彼を妻に合わせようと思っていた。彼女が、自分の愛する、これからもずっと愛してゆく女性であると紹介しようと決めていた。


 博之は、学校にいた。具合はどうかと同僚に聞かれた。もう体調は悪くなかった。その日の授業の準備をしていると、教務主任から、昨日の授業レポートに一通り目を通すように言われた。代理のインストラクターが、彼に代わって授業を行っていたからであった。急に休むという連絡が、彼の親類からあったが、大丈夫かと言われた。彼は、そのことに身に覚えはなかったが、「ぇえ」と曖昧な返事をした。

 『そういえば……』

 彼は、昨日のことを思い出すことができなかった。タイムカードを確認すると欠勤の文字が朱に書かれてあった。今日が、金曜日であることはわかっていた。明日香に逢う事のできる日であった。彼は、ワームホールにでも陥ってしまったのではないかとあれこれ考えてみたが、昨日の記憶の片鱗さえも思い出すことはできなかった。

 その日、一つ目のクラスが終了した。そして、二つ目の授業もいつもどおり行うことができた。そして、明日香がやってくる授業が始まろうとしていた。彼女は、火曜の授業には来られなかった。それでも、仕事が終わって彼の部屋までやってきてくれた。

 『もし、彼女が今日来られなかったら……』との不安はあったが、その時はまた、後から彼女が逢いに来てくれるに違いないと気持ちに余裕を持つことができた。教室のドアを開け、見渡すと明日香の笑顔がそこにあった。

 明日香は、微笑んでいた。いつもより余計に笑顔を零していた。彼女は、嬉しかった。今日は、他の生徒に彼に対する気持ちを知られてもいいのではないかと思った。その彼女の気持ちを感じてくれたのか、彼は彼女の方ばかりを見つめていた。教室での、いつもの、草食動物が平原を歩く時のように辺りに細心の注意を払う目ではなかった。他にはもう何も見る必要がないというように、彼女に対する愛情を満面に湛えた目をしていた。彼女は、嬉しかった。本当に嬉しかった。二人の間にある、秘密を今は明かすことはできないが、彼女は心から彼を愛していると確信していた。

 その日、授業が終わると彼はいつものように急いでいた。階段を駆け上り、横断歩道を走っていた。

 彼には、食事を摂る時間さえも惜しい気がしていた。直ぐにでも抱きしめたいと思っていた。部屋に入るとその感情はもう抑えきれなくなってしまった。

 彼が、夜眠っている時、彼女はそっと目を覚ました。そして、クローゼットに向かい、中から一着の服を取り出して彼女の鞄の中に閉まっていた。彼は、眠っていた。子犬のように眠っていた。彼女は、可愛いと思っていた。

 彼女は、このマルチな関係に疲れを感じたこともあった。しかし、今は、この時間がいつまでも続く事を願っていた。彼女は、愛していた。心から愛していた。

 彼女の気持ちは誰にも理解されないかもしれなかった。それでも、この心の病を患っている博之を愛していた。もし、彼女とこうしている時に、宮本が現れたとしたら……。もし、宮本といる時に博之が現れたとしたら……。それは、決して起こってはならないことであった。それ以上に起こるはずのないことであった。

 何故なら、宮本博之は、村上博之なのだから。そして、村上博之は、宮本博之なのだから。

 もともとは、宮本博之、それが、両親の再婚で心理的虐待を受け新しい姓の村上博之が彼の中に宮本博之と言う幻影を作り出していった。

 多重人格(マルチ・パーソナリティー)

 一人で、この部屋にいる時、彼は村上博之となり、彼の作り出した宮本博之という幻影を待っている。そして、宮本博之は、彼女と結婚する以前から、亡くなった両親の家に住んで、村上博之がやってくることを待っていた。余りの虐待に家を飛び出しては見たものの、両親が病に倒れたことを知り家に戻ったものの、彼の精神は幼い頃からすでに分離されてしまっていた。そのことに、本人は気づいてはいない。

 結婚する以前、病院の先生に精神科医を紹介してもらった。もちろん、彼の事であるとは言ってはいない。友人に相談されてと言っただけであった。

 彼のことはその時も愛していた。しかし、結婚を考えると正直迷ってしまった。一生一人の身体に二つの人格をもつ男性と過ごしてゆけるものかと悩んでいた。そして、子供を授かった。宮本は心の底から喜んでくれていた。それでも本当に悲しいことであったが、彼女の心は病んでいた。彼の病気のことを考えると生むことはできないと悩んでいた。その心労がもととなり彼女は流産をしてしまった。彼には病院での不慮の事故と伝えた。そのことがあってから、彼はそれまで以上に彼女につくしてくれるようになっていった。彼女には、宮本でも村上でもどちらでもよくなっていった。それぞれが、話すお互いの人格についての話を優しく見守りながら聞いていた。社会的な生活に、まったく支障がないというわけではなかったが、不自由を感じることはなかった。それ以上に、同じ人のこれ程までに違った愛情があるものかと驚かされる毎日であった。

 そして、彼女は心に決めたのであった。

 精神的な安定が続けば、いつか一つになることができる場合もあると精神科医が言った言葉を信じた。後は、彼らが受け続けてきた心的傷害を乗り越えるだけの愛情をどれ位注ぐ事ができるかであると言われた。まだ、彼女にも知らない精神的な、肉体的な、性的な虐待が過去にあったのかもしれないと医者は言った。そして、彼女は決心した。どちらの博之も心の底から愛してゆこうと誓ったのであった。

 このマルチな関係がいつまで続くのかと不安を持っていた。しかし、今は、二人の博之のいることに彼女は幸せを感じていた。

 世間の誰にも憚ることなく、二人の男性を同時に愛する事ができるのだから……。二人の男性から同時に愛される事ができるのだから……。

 もしかしたら、彼女の中にも、新藤明日香と宮本明日香という二つの人格が生まれ始めているのかもしれないことに彼女は気づき始めていた。


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