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作品名:マルチな関係 作者:宮本野熊

第12回   12
 水曜日。

 宮本は、夕方、博之の家を出て歩いていた。いつもより早く、彼の家を後にした。昼過ぎに彼の部屋を訪ねると彼の部屋からは、女の香りが漂っていた。懐かしい、香りを感じた。宮本が、彼の部屋を訪ねたとき、彼はいつものように眠っていた。一人で眠っていたのだった。彼には今付き合っている女性がいることを知っている。ただ、彼女とだけ聞いていた、宮本は自分が妻のことを彼にはあいつと言っているように、彼も彼女のことを彼女とだけ言っていた。お互い、誰にも替えがたい親友であったため、それぞれの女の名前などどうでもよいことであった。ただ、あいつ、彼女とだけ誰のことを言っているのかを話の中でわかればよかった。彼を起こし、いつものように話をしていたが、彼の部屋からは、懐かしい香りが、消える事はなかった。宮本は、妻に会いたくなっていた。どうしても、直ぐにでも逢いたくなっていた。まだ、彼女は仕事の終わらないかもしれなかった。それでも、あいつが家に帰るよりも先に、家に居て。少しでも、早く顔を見たいと思った。宮本は、自分自身の妻に対する恋情を本物であると確信した。『俺は、あいつを心から愛している』と誰にでも自信をもって話すことのできるような気持ちになっていた。宮本は焦り始めていた。もっと急いで帰らなければならないと走り出していた。鼓動が早く鳴り始め、背中から汗が滲んできていた。すべては、妻を愛する証であると考えると嬉しくなってきた。宮本は、早く妻の顔を見たかった、明日香を一刻も早くその手に抱きしめたかった。

 宮本は家に着いた。全身から汗が噴出していた。額からも、髪の毛からも、雫が滴り落ちていた。そして、そのまま玄関に座り込んでしまった。これまで、これ程までに走った憶えがなかった。これ程妻に逢いたいと思ったことはなかった。敢えて逢いたいと思わなくとも妻は、家に居てくれていた。仕事のとき以外は、妻は自分の側に居てくれる存在であった。

 『それなのに……』

 自分は博之の部屋で嗅いだあの懐かしい香りに自信の男性を誘発されてしまったのだと思った。これまでは、親友の部屋にあれ程生々しく男女の営みを感じたことはなかった。それが、今日は違っていた。どんな話をしても、何か霧中に居るような気がして、時折、言葉がしどろもどろになっていた。博之の何を話したかったのかさえ理解できなかった。これまでなら、彼が何を言おうとしているのかが自分にはわかった。すべてを聞く前に、理解ができていた。阿吽の呼吸でそれがわかったのである。しかし、今日は、彼が何を話したいのか、それ以上にどんな言葉を話したのかさえ理解に困った。まったく聞き覚えのない国の言葉に晒されて、ただ、理由もなくニヤニヤと彼に向い作り笑いをしている自分に滑稽さを感じていた。あの香りは、妻の香りに似ていた。病院のアルコールとポワゾンと彼女の汗の混じった香りに似ていた。そして、その香りの奥からは、自分がまだ知らないかもしれない女のというより慈悲に溢れる聖女の悲恋、母情のような懐かしい空気を感じた。それは、実際は香ではなく博之の言葉の端々から感じ取っていたのかもしれなかった。彼の言葉を聞きながら、『あぁ、明日香……、明日香……』と自分は心の中で叫んでいた。妻に逢いたかった。早く、妻に逢って抱きしめたいと思った。妻に抱きしめてもらいたいと思っていた。

 宮本は、部屋にも上がらず。玄関の壁にもたれ妻の帰りを待っていた。ドアの向こうで、コトッと音がする度に体がビクンと反応した。それは風に吹かれたポストのフタの揺れる音であったり、近所の子供が駆けて行った音であったり、野良猫か野良犬が遊ぶ音であったりもした。ドアの前に人影が現れたこともあった。その時は『あぁ、やっと帰ってきた……』と腰を上げようとしたが、直ぐに新聞差しの小窓から水道の使用量の書いた紙が滑り込んできた。『自分はどうかしてしまっている……』と宮本は、落胆の笑みを浮かべていた。『それにしても、自分がいない間にもこれ程にこの家は雑とした騒々に取り巻かれているだろうか……』となんでもないことを考えていた。そうする事のできるくらいには、宮本の気持ちは落ち着きを取り戻していた。小窓に映る空の色が幼い頃に描いた水彩画の澱んだ湖の水面のように深みを増してきた。汗は既に退き、今は、シャツに沁み込んだ冷たい感触だけが自身の抱いた希望と興奮の記憶を留めていた。『着替えよう……』と立ち上がったとき、ドアに鍵が差し込まれた。宮本は、無意識にドアに向って立っていた。ドアが開いた。

 「っは……」
と明日香は、息を呑んだ。明かりのない薄暗い玄関に宮本の姿を見つけて、それが誰だか直ぐには判断できず、身体を硬直させていた。

 妻の反応に何の配慮もなく、宮本は足を一歩進めると言葉も何もなく妻に抱きついていた。抱きしめるという余裕な感情の出てこないままに、彼女の肩に頬を預け、抱きついていた。彼女の首筋からは、病院の消毒の香りが濃く漂っていた。宮本は目を閉じた。幼かった頃、いつもそうしたいと思っていたのに、理由もなく母の身体にこうして抱きつきたかった時のことを思い出していた。今、自分は安心している。誰にも憚ることなくこうして、自分の心から愛する人に無心に身体を預ける事ができるのだと安心している。そう思うと嬉しかった。いつまでも、こうしていたいと思っていた。

 明日香は、夫の行動に驚いていた。何故、この人がこんな風に抱きついてきたのだろうかと考えていた。はじめは、驚きの気持ちが先に立ち、腹の立たないこともなかった。夫は、彼女の肩に顔を当て泣いているのかもしれなかった。肩にじんわりと伝わる温もりを感じていた。彼女は、夫にこうしている事の理由を直ぐには聞こうと思わなかった。灯りもつけずに、ただ、彼女の帰りを待っていてくれたことを嬉しく感じ始めていた。『この人は、私を愛している、この人にはやはり私が必要なのだ。そして、私もこの人を愛している……』と思うと彼女よりも一回りも大きな夫の身体を抱きしめていた。夫の背中にひんやりとした汗の感触が感じられた。

 「どうしたの?」

 彼女は、まだ幼い子供の患者に話しかけるように夫の身体を抱きしめながら静かに口を開いた。

 「……」

 夫からは、何も返事がなかった。少しずつではあるが、夫の吐く息の深く長くなってゆく事を彼女は肩に感じていた。

 「どうしたの?」

 彼女は、夫の後ろ髪を優しく撫でながらもう一度囁いた。

 すると夫は、顔を彼女の肩からゆっくりと持ち上げた。持ち上げながら、彼女の頬に軽くキスをした。

 彼女は、夫と向き合っていた。暗がりの中、はっきりとは見えなかったが、夫の目は濡れているように感じた。

 「なんでもない……。早く、逢いたかっただけ……、明日香に早く逢いたかっただけだから……」

 そう言うと夫は玄関を上がり、背中を向けて部屋へ入っていった。彼女は、灯りをつけた。明かりの向こうに歩いてゆく夫の姿が、彼女にはいじらしかった。

 着替えを済ませ、食事の支度を終えると彼女は夫の書斎へ声をかけた。夫は、何事もなかったようにテーブルについた。話こそ、余りなかったが、夫の表情はいつもより子供っぽく見えていた。巣立つ前の雛鳥のように、純真に母鳥に何かをうったえかける目をしていた。夫の目は、子犬が、無邪気に母犬の懐に飛び込む時に見せる瞳の輝きを持っていた。

 明日香は、箸を持つ手を止め。直ぐにでも、夫のことを抱きしめてあげたいと思っていた。外見こそ立派な男として育ってはいるが、まだ、成長しきれていない、どこかに置き去りにされてしまっていた夫の心を抱きしめてあげたいと思っていた。彼女の、母に似たこの気持ちには偽りの感情の湧きあがる些細な隙間もありはしなかった。今、この時、彼女は誰よりも夫のことを愛していると感じていた。博之には、この感情を説明のしようもないが、もし、彼がこの時、目の前に現れたとしても彼女には夫のことをしか見ることができないと感じていた。そして、彼に『この人が私の最愛の人です』と言い放つ事ができると自信の湧きあがることを感じていた。目の前にいる夫の箸を持つ手も、咀嚼する口元も、いつも何かに怯えているように見える目も、食事の通るたびに上下する喉もすべて彼女のものであると感じていた。彼女は、早く夫を抱きしめたかった。食事など、どうでもよいのではないかと考えていた。彼女は、夫に彼女の心の内に気づいてもらいたかった。仕事の疲れなど、もう一燐でさえ身体のどこにも残ってはいなかった。夫の手の動くたび、夫の口元の動くたび、夫の椅子に座りなおすために体が動くたび、彼女は鼓動が早まることを感じていた。彼女は、夫に愛されなければならなかった。そして、それ以上に夫を愛さなければならなかった。彼女は、少しでも長く夫に触れていたいと思っていた。この先、ずっと一緒にいなければならないと思っていた。


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