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作品名:マルチな関係 作者:宮本野熊

第11回   11
 明日香は、走っていた。

 彼の元へ少しでも早くたどり着くために急いでいた。彼女は、突然担ぎこまれた患者のケアに時間を取られていた。その患者の容態の落ち着いた頃には、もう彼女の楽しみにしていた授業の時間をとっくに過ぎてしまっていた。楽しみにしていたのは、授業ではなかった。彼に逢えると言うことを楽しみにしていたのであった。看護士には当たり前の事であるが、勤務時間中、彼女は携帯の電源を切っている。急いでいたため、彼女は鞄の中の携帯をそのままにしていた。彼女には、あれこれ考える余裕はなかった。ただ、彼の元へと急いでいた。彼の待つ部屋へと駆けていた。

 マンションに着いた。下から見上げた彼の部屋には照明が点いていなかった。

 『どこかへ出かけているのかしら?それとももう寝てしまったのかしら?』
と思ったが、彼女はエレベーターに乗り込みドアが開くと早足で彼の部屋の前に辿りついた。彼女は早く彼に逢いたかった。それでも、これまでにはなかったこの状況に、彼女は彼になんと言って逢えばいいのかわからなかった。彼女が、何故、授業を欠席し、こんなにも遅くなって彼の元へと来た理由は簡単に説明できた。しかし、その説明の前に、どうやって彼に接すればよいのかがわからなかった。「こんばんは」、「今日はごめんね」、それとも「逢いたかった」といきなり気持ちを伝えたらよいのかに迷っていた。このドアの向こうには、愛しい彼がいる。そう思ったとき、明日香は、不安な気持ちがどこかから湧き上がってくることを感じていた。

 「……もしかしたら。あの人がいるのでは……」

 彼女は、彼の親友のことを考えていた。彼の親友、彼女の夫である宮本博之のことが突然、頭に浮かんできた。

 彼女は、ドアベルを鳴らそうとしていた手をためらった。もう一呼吸で、ボタンを押し込むところであった。彼女は、博之を愛していた。この部屋に住んでいる村上博之も、彼女の夫である宮本博之も愛していた。どちらを余計に愛しているのかという疑問など問いかける余地のない位に彼女は、どちらも心から愛していた。ベルを鳴らして、『もし、あの人が、宮本が出てきたら……』と考えると躊躇なくそのボタンに指を触れる事はできなかった。彼女は、宮本と博之の関係を知っていた。もう随分前から知っていた。宮本が、博之のことを誰よりも大切にしていることを知っていた。博之が、宮本と友情以上の関係であると言っていたことを聞いていた。彼女が宮本と結婚する以前から、彼女は二人の関係を知っていた。彼女は、宮本を初めに愛した。そして、彼を初めて見たとき、それまで話しにしか聞いてはいなかった博之を愛するようになっていた。

 宮本は、彼女に他にも女がいると言っていたが、それが本当ではないことを知った。あの人は、女の所へ行くと言っては、博之の部屋へと通っていた。当初、宮本のことをバイセクシャルかと考えたこともあったが、そうではないことを知った時、彼女は内心ほっとした。宮本が出かけてから、彼女は、博之のマンションの前に来ていた。そして、博之が外出する後をつけてみた。そうして、彼が、インストラクターをしていることがわかった。その後、彼女はそのスクールに入校し、彼の授業を受けるようになった。宮本と結婚前であった為、名前は、彼女の旧姓新藤で登録を済ませた。結婚をしたことは彼の授業を一緒に受けていたどの生徒にも、学校にも、もちろん彼にも話すことはなかった。彼女は、彼にとっては、今でも独身の新藤明日香であった。初めは、興味本位であったのかもしれない、宮本の親友であるという博之から、宮本のことを色々聞きたかっただけかもしれない。彼女は、宮本を愛していた。宮本のすべてを知りたいと思っていた。もしかしたら、彼が、彼女のことを宮本の話した彼女であると気づくかもしれないと彼と教室で会うたびに思っていた。しかし、彼は、彼女が親友の宮本の彼女であると気づくことはなかった。色々話をしているうちに、彼女は博之とコーヒーを飲んだり、食事に行ったりするようになった。そして、彼女は、いつの間にか宮本と同じように博之に好意を抱くようになっていた。彼女自身から、博之に宮本とのことを話そうと思ったこともあった。ただ、そうすることで、あの人と彼が必要以上に混乱してしまうのではないかという不安を抱いた。二人の仲が、拗れ、その先にやってくるかもしれない不幸せを彼女は受け入れることが出来なかった。その内に、彼女は博之とも関係を結んでしまうこととなった。そうなったことで罪悪感に苦しむことのなかったのが、彼女には不思議であった。彼女は、宮本も博之も同じように受け入れた。そして、同じように愛するようになっていった。

 『この扉の向こうにもし、あの人がいたら……』

 彼女は、悩んでいた。彼には会いたい、博之には会いたくて仕方がなかった。しかし、……。

 彼女の体は、弾力性を失い次第に乾いてゆく粘土細工のように動く事が出来なくなっていった。それと同時に硬直してゆく心を感じていた。

 「はぁ〜」
と彼女はため息を漏らしていた。すると廊下の天井につけてある蛍光灯が、ピンっと音を立てて突然点滅を始めた。

 『こんなこと長く続くものじゃないのかもしれない……』

 彼女は、うな垂れていた。

 その時、エレベーターから一人の男性が降りてきた。明滅する灯りは、それが誰であるかを彼女に悟らせないように小刻みに揺れていた。

 男が立ち止まった。

 「明日香?」

 彼女は、ビクンと体を振るわせた。男の声は、低く小さく、誰の声であったのか判断する事ができなかった。

 「Good evening……、明日香」

 今度は、はっきりと聞こえた。博之の声であった。

 「ビックリした!」
と明日香は声を震わせ、彼に駆け寄り抱きついていた。

 「どうしたの、今日は……。心配したんだよ、とっても……」

 彼は、彼女の肩を抱きしめながら囁いた。

 顔を上げると彼女は、泣いていた。彼女の目から、雫が流れ落ち一瞬光った。彼には、彼女の涙の理由がわからなかった。

 その後、彼女は、授業を休まなければならなくなった理由を彼に話した。そして、急いで彼の部屋へとやってきたことを話した。彼は、嬉しかった。彼女が、それほどまでに彼のことを思ってくれていたことが嬉しかった。涙の理由は、思いもかけない形で彼に逢えたことに対する彼女の愛情の証なのだと理解し微笑んでいた。そして、彼女の涙につられるように彼の瞼にも零れそうなほどに、愛情が溢れ始めていた。

 二人の気持ちが、漸く落ち着いた頃、彼女は彼にこんな時間にどこへいっていたのかと訊ねた。

 彼は、手にもったコンビニの袋を掲げ、「ビールなくなっちゃったから……」と言ってニッコリと微笑んだ。

 「急いで来たのとびっくりしたので、喉が渇いちゃった。鍵、開けて……。飲もう……」

 明日香は、彼の手からコンビニの袋を取りドアの横へと身体をずらした。

 二人は、部屋に入ると直ぐに抱き合っていた。床にビールの缶が転がり、包んでいた白い袋が、静かな波の浜辺に打ち寄せるようにサラサラと音を立てながら揺れていた。

 床に座り、ベッドにもたれながら、二人は冷えの鈍くなったビールを飲んでいた。彼女は、彼のスウェットを肩から羽織り掛け、彼に左に寄り添っていた。手をつないだまま、もう一方の手には缶を持っていた。

 彼は、少し、考えていた。何をというわけでもなく、それでも、考えずにはいられなかった。彼は、ほんの少し前、二人でシャワーを浴びていた時のことを思い出していた。彼女の体に石鹸をつけた彼の手を滑らせていた時、彼女の右の乳房の脇に赤ん坊の口のようにして目を引く小さな痣を見つけたからであった。それを彼女に尋ねると「患者さんを介護した時にはさんじゃったのかな……」と言っていたことを考えていた。
彼女の話に嘘があるなどとは考えてはいなかった。ただ、宮本の言っていた言葉が、再び思い出されていた。

 「男が、ただ一人の女を愛し続けるなんてことは在り得ないよ……。それは、女も同じ事さ……」

 彼女が嘘を言っていると思っていたわけではなかった。彼女は、彼に抱かれ、今もこうして肌にしっとりと汗を感じさせながら手を握り、彼の肩にその頭を預けている。ライトを消した暗がりの中では、気づくことのなかった乳房に印された小さな赤いシミを見つけたとき、「彼女は戸惑うことなく患者さんを……」と話し始めた。彼女の言葉に偽りを感じなかった。しかし、宮本の言葉は彼に“もし”という仮定の空想をさせるに十分な重みを持っていた。宮本は、彼の二人とはいない親友であった。

 『ごめんね、明日香を疑ってこんな風に考えているんじゃないんだ。僕は、売れてはいないし、なんの注目をされているわけでもない、それに才能があるわけでもない。でも、これでも小説家の端くれなんだ。考える事が仕事なんだ。だから、こんなことを考えても、許してくれるだろ……』

 彼は、言い訳をその心の底に零していた。

 『もし、彼女が、彼女の体が誰かに取られていたとしたら……。それでも、僕は彼女のことを愛する事ができるだろうか。もし、彼女の話す言葉に見え透いた嘘を見つけたとしたら、それでも、彼女を許すことができるだろうか……。もし……、もし……、もし……』

 彼は本気でそう考えているわけではなかった。彼は、彼女に疑いの気持ちを持っているわけではなかった。それはあくまでも、“もし“という創作の話であった。

 『もし、もし、もし……』

 彼は、過程の話を頭の中で繰り返すうちに、『“もし”彼が考えた事が本当であったとしたら』と不安になる気持ちを抑えることが出来なくなってしまってきていた。すると無意識に彼の彼女を握る手にピクンと力が入った。

 彼女は、彼の肩に持たれかけ、未だシャンプーの香りが残る小さな頭を持ち上げ、彼の方を向いてニコリと笑って口を開いた。

 「どうしたの?」

 彼女には、彼の思考の偏りを察知することなどできはしなかった。また、彼が何を考えているのかを彼のように仮定的に考えることはしなかった。彼女は、ただ、彼を愛していた。彼を抱き、彼に抱かれる内に彼に対する愛情は深くなっていった。彼は、彼女のすべてであった。それに答えてくれるように、彼は、彼女の思うように彼女を愛していた。彼女の知らない彼は、彼女の中には存在してはいけないとも感じていた。彼女は、彼のすべてを知っていた。彼女以外に、彼をこれ程までに愛する事はできないと自信を持っていた。彼女は、彼の言葉を愛していた。彼女は、彼の表情を愛しく感じていた。彼女は、彼の抱擁が何にも替えがたい力に感じていた。彼女は、彼の髪も、目も、鼻も、耳も、口も、肩も、胸も、腕も、手も、脚も、背中もすべてを慈しんでいた。彼女には、彼のすべてを知らなければならなかった。

 だから、彼の
「なんにも……。なんでもないよ……」
という答えには満足できなかった。

 「だって、今、手がピクンって動いたよ……。何を考えていたの?教えて……。身体は、心に反応するんだって前に言ってたでしょ。今、何か考えていたから、ピクンってしたんじゃないの?だ・か・ら、教えて?」

 彼女は、いつになく甘えた声で彼に尋ねていた、しかし、彼女は聞くべきではなかった。彼女は、後悔する事になるかもしれなかった。彼女にとっては、彼の口からどんな言葉が出てくるかを想像はできなかった。「愛してる」、「好きだ」と言う言葉の聞けることを心の奥で望んでいただけであった。

 彼は戸惑っていた、彼女の言葉に本当のことを話すべきかどうか迷っていた。彼自身の女々しい思考と発想を彼女に知られたくはなかった。しかし、彼は彼女の無垢な笑顔に抗うことはできなかった。ごまかし、嘘をつくことができなかった。彼女の瞳には、一点の影さえ見出す事はできなかった。

 そして、
「あのね……」
と彼女に誤解を生じさせないように言葉を選び、彼の考えていたすべてを話した。

 彼女は、彼の帯を紡ぐようなゆっくりとした口調に耳を傾け、水槽のランチュウが時折水面に持ち上がってはポッと歯噛みしているような口元を見つめていた。

 「……変でしょ。こんな風に考えるなんて」

 彼は、彼女からの感想を期待するようにではなく、話しを締めくくろうとしていた。
彼女は、黙っていた。話し終えた彼の口元から視線を彼の瞳へと移していた。

 「ううん。ちっとも変じゃないよ……」

 そう言いながら、彼女は、手に持ったビールの缶を見つめていた。

 彼女は、動揺していた。それを彼に悟られたくはないと思っていた。

 『あれは、嘘だったの……』
と彼女は本当のことを話すべきではないと思っていた。しかし、そうしなければならない日がいつかくるのかもしれないと不安になっていた。

 『でも、今は……』

 彼女は、彼を愛していた。誰よりも、愛していた。そう考えてはいけないのかもしれなかったが、今、この時、彼女は、宮本よりも博之のことを心から愛していた。夫が、もしこの場に現れたとしても、彼女は、躊躇なく言えると思った。

 「彼を愛しています」
と。

 彼女は、宮本を愛していた。誰よりも愛していた。しかし、今、この瞬間は……、彼を誰よりも愛していた。

 彼が、何故、そう考えてしまったのか?それは、無理もないことであった。彼女がもし、反対の立場であったとしたら、彼ほどにではないにしろ、疑念の脳裏を掠める事を止めることはできないと思っていた。しかし、彼はそのように考えてはならないと彼女は思っていた。何故ならば、宮本と同じように幼少から病んできた彼の心を癒す事のできるのは、彼女より他にはいないと確信しているからであった。宮本にも、そして、彼にも、彼女と言う存在は必要であると信じているからであった。今、ここに宮本はいない。彼女は、彼にのみ心を砕く事ができる。専心の情を注ぐ事ができる。今、彼女が、彼を必要としているように、彼にも彼女は必要なのに違いないと感じていた。

 彼女は、後悔し始めていた。何故、執拗に彼を、彼の心の中を詮索しようとしたのかと後悔していた。それでも彼に、彼女の心の中をこの時に明かすわけにはいかなかった。彼女は、彼を混乱させてしまわなければならないと思った。彼の疑念について、有耶無耶にしてしまわなければならないと思っていた。そして、最後に彼女は、「小説を書く人って、やっぱり少し変なのかも」と笑い飛ばしてしまおうと考えていた。

 彼女は、芝居を打つように顔を神妙な表情に作り変え、彼がしたと同じように言葉を選ぶ様子を装い、ゆっくりと口を開いた。

 「あのね……、怒らないで聞いてね……」

 彼女を見つめる彼の純朴な表情に、彼女は負けてはいけないと奥歯を噛み締めた。

 「もし、あなたの考えた事が、本当だとしたら、それでも私のことを今までのように愛してくれる……?それでも、私のことを愛する事ができる?」

 彼は、驚いていた。彼女の口から出た言葉に。それ以上に、彼女の真剣な眼差しの圧力に、その場にある何ものをも吹き飛ばしてしまう程の威圧に言葉を発する事ができなかった。彼は、彼女の言葉に刑場に引き出され磔にされてしまった無実の罪人のように身動き一つできなくなっていた。

 彼女は、彼の言葉を待っていた。しかし、彼は、凍り付いてしまっていた。顔からも、身体からも、すべての表情が、気配が消えていた。生きている人の体温が感じられなくなってしまった。彼は、血液の流れが止まってしまったようになっていた。彼は絵付けのされていない、無垢のこけし人形のようにそこに座っていた。それでも彼女は、待っていた。彼女の次の言葉を話すために彼の言葉の出てくる事を望んでいた。しばらくの沈黙が、今や彼女の心をさえ凍りつかそうとしていた。

 彼女は、待ちきれなかった。もう、待つべきではないと思っていた。このままでは、彼の心は木の殻に閉じこもってしまうと焦っていた。彼が、もう二度と目も入れることできない達磨人形にでもなってしまいはしないかと心配になってきた。彼女は、全身のどこかしこから、良心と情愛いう生気をその顔に集中させて、顔を綻ばせた。

 「ばかね、そんな真剣な顔をして……。そんなことあるわけないじゃないの。あなたが、変な想像してるから、少し、イジメて見ただけ……。あなたは、まるで子供のように打たれ弱い小説家みたい。本当に可愛い……、本当に愛してる。私は、あなたを離しはしない、あなたを愛している。これからも、ずっとよ……あなただけを愛し続けるの」

 突然綻んだと思った彼女の顔が、再び、真剣な表情に戻っていた。

 彼は、彼女の口から吐き出された呪縛から解き放たれた。彼女の呪文によって、彼の身体と心は自由になった。彼女の真剣な眼差しを見ていると、その言葉に嘘はないと思った。彼は何の言葉の話すこともできなかった替わりに、口付けを求めていた。彼女の温もりを感じながら、彼は、彼女を、明日香をずっと愛し続けようと思った。宮本の言葉は、もう、彼の頭の中からは消えていた。その代わり、彼女の言った“打たれ弱い小説家”と言う彼女の的確な表現に口元の緩みを抑えられないでいた。


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