火曜日。
「書くことができない……」
博之は呟いていた。明け方まで一行も書き進まなかったのである。書いては消し、消しては書きを繰り返していた。それまで感じることの出来ていた孤独と絶望と懊悩をどうしても表現できなくなっていた。それらしい文字をしたためることはできても、苦悩の裏側にある打ちのめされた心情を掘り下げる事が出来なくなっていた。
彼は、新しい原稿用紙を取り出し、明日香に対する恋情を綴っていた。『会いたい……』と彼は心の内で叫んでいた。何度も何度も叫んでいた。今日の夜、彼女を教室でひと目見たときに、思わず『会いたかった!』と本当に叫んでしまうかもしれないと思った。目を閉じて彼女のことを思うと息苦しさを感じるほどであった。想像の中の彼女は、姿を見せてはくれなかった。そこにいることはわかっていても彼女に触れる事は出来なかった。そこにいる筈であるのに彼女の声を聞く事はできなかった。彼女の姿を思い浮かべようとしても彼女は透明なシルエットに包まれていた。笑っているはずなのに、その表情を露にしてはくれなかった。彼女は、何も纏っていない筈であるのに彼女のマシュマロのように白く滑らかで艶やかな乳房を見ることはできなかった。彼女の素肌から立ち昇る水密桃の香りに包まれることはできなかった。それでも、彼は彼女を求め想像を遊ばせていた。
ドアの開く音が聞こえてきた。それが、彼の部屋のものなのか、上の階から洩れてきたものなのか彼にはわからなかった。彼は、その音さえも彼の思念の中の出来事かのように無関心にベッドに凭れ目を閉じていた。
「なんだ、また、寝てるのか?」
宮本の声であった。
彼は、その声に現実に戻らなければならなくなった。あれ程話しをしたいと思っていた宮本の声を少し恨めしく感じていた。彼は、ゆっくりと瞼を開いた。
「宮本か?寝ていたんじゃないよ。ストーリーを考えていたんだ」
彼は、咄嗟に嘘をついていた。彼は、宮本に彼の想像を悟られたくなかった。ほんの少し前までは、彼の明日香に対する恋しさを聞いてもらいたいと思っていたはずであったのに、今、彼からは、そうしたいという気持ちが薄れていた。一向に進まない原稿を目の前にして、本当はその先を考えてもいなかったのに、一行も書くことが出来なかった言い訳を宮本に対して繕っていた。
「スランプだな……」 と宮本は言った。
そのことは彼もわかっていた。どうして、スランプに陥ってしまったのかもわかっていた。彼は、彼女に満たされ始めてきたからであるとわかっていた。舞台にいる役者の頭上から突然暗幕が落ちてすっぽりと暗闇に包まれ、どうにかしてその真っ暗な中から抜け出そうと手探りで暗幕を手繰り寄せこれまでずっともがき苦しんできた。目には見えないどこかからか嘲笑の声々が聞こえてくるような恥辱的で陰な心持に苛まれてきた。しかし、今はそうした心境に戻る事ができないでいた。
「そうかもしれない……」 と彼は宮本に呟いていた。
「書くこと以外で心と生活に安定を求めたのがいけなかったのかもな……」
『そうかもしれない……』
彼は、声には出さず。心の内で呟いていた。
彼は、宮本が羨ましかった。書くことで生活を成り立たせていた宮本を羨望していた。未だ会った事はないが、宮本の妻を持っていることに尊崇していた。宮本の遊ぶ女のいることに、それでも宮本に対し妻が理解を示している事に震撼を感じずにはいられなかった。彼には、宮本の為している何をも出来はしなかった。
一つだけ、彼の宮本に優っていると言うことの出来るところがあるとすれば、ただひたすらに一人の女性を愛するという気持ちだけであった。
「男が、ただ一人の女を愛し続けるなんてことは在り得ないよ……」
宮本は、彼にこう言った。また、 「それは女も同じさ。事実、俺達の親を見てみろ。周りを見てみろ。子供がいたって、別れてしまうんだぜ。結婚が愛を保証するわけじゃぁないだろうけど、愛情なんてものは儚いものさ、安定してしまうと直ぐに消えてなくなるんだ。だからっていう訳じゃないけど、俺は、女を作るのさ。不安定な状況をつくり、それで妻を愛するんだ。勝手なんだ。それはわかっているさ、でも、これだけは言える。俺はどこでどんな女と居ようが、妻を忘れたことはない。俺は俺のやり方で誰よりも妻を愛しているんだから……」 とも言った。
宮本の目に嘘があるとは思われなかった。しかし彼は、宮本とは違うのだと感じていた。彼のようにしようともしたいとも思わなかった。それでも、彼は、宮本を羨ましく、そして、逞しく感じていた。
宮本の話しを聞き、彼は少し不安になっていた。彼女をこれから先ずっと愛してゆけるだろうかと不安になっていた。彼女は、これから彼をのみ愛してくれるだろうかと不安になっていた。彼はこの気持ちを宮本に話すことはできなかった。今、彼が育もうとしている彼女との愛を壊されたくはないという気持ちが心のどこかに浮かんでいた。 アラームが鳴った。スクールの支度をする時間になっていた。
「今日は、学校だったな。それじゃ、そろそろ俺も行くよ」
宮本は、そう言って部屋を出て行った。どこへ行くのかは告げなかった。宮本の後姿がどこか寂しそうであった。
「じゃ、また」 と背中越しに宮本は手を振りドアの向こうへ消えていった。
彼は、重い頭を抱えながら教室に立っていた。十五人程の生徒の中に明日香の姿は見られなかった。授業が終わろうとしていた。それでも明日香は、現れなかった。彼は、落胆していた。彼が、あれ程彼女に会うことを心待ちにしていたのに、彼女もそうであるに違いないと思っていたのに、彼女の姿を教室で見つけることができなかった。彼は、宮本の言った言葉を思い出していた。『不安定な状況をつくり、愛する……』と言う言葉を思い出していた。彼には、出来ないと感じていた。彼は、そのことを確信していた。ただ、彼女が授業に来なかったというだけで不安になっていた。仕事が忙しかったのかもしれなかった。怪我をしたのかもしれなかった。友人になにか相談を持ちかけられたのかもしれなかった。友人?女だろうか、それとも男なのか?彼には、何故、今日、彼女が教室に現れなかったのかを推測する事しか出来なかった。焦燥を感じていた。彼には愛というより不安をしか感じることはできなかった。その不安な感覚は、彼女に対する愛情から来ているものだと彼自身を説得していた。しかし、愛の延長線にある不安は、彼にはただの不安でしかなかった。その時彼は、彼の心に不安を投げかける彼女の存在を憎いと感じた。この気持ちも愛情の延長線上にあるものなのだろうかと不思議に思った。彼は、これもただのささいな憎心であって、愛に含まれるべき感情ではないと思った。彼は、本当に彼女のことを愛しているのかということに自身がなくなってしまうような気持ちになった。愛しているには違いない。ただ、本当にという強調詞がつくと自信をもって“本当に”ということのできない感情がどこかに存在することに気づいた。彼は、愛の形がどのようなもので、どのように造り上げることの出来るものなのかがわからなくなってきた。今は、ただ、彼女に逢いたいということだけが彼の真実で、それが愛情からなのかどうかがわからなくなっていた。『本当に、彼女の事を愛している。……と思いたい……』こう考える事が、彼には精一杯の気持ちであった。
授業が終わって、職員室に戻ると同僚のインストラクターから、元気がないと彼は言われた。彼は、体調の不良を理由にした。授業レポートをなおざりに書いた。そして、彼は急いで学校を後にした。
彼は、歩きながら携帯を取り出した。着信を確認したが、電話もメールも入ってはいなかった。彼は、彼女の名前を画面に映し出した。電話はコールもせずに留守電のアナウンスが流れてきた。メッセージは残さなかった。電話をメール画面に切り替えた。どのようにメールを打とうかと考えた。適切な言葉は浮かんでこなかったので、(なにかあったの?心配しています。連絡ください)とだけ書いて発信した。
電車に揺られ彼はいつものように窓に映る自身の姿を眺めていた。彼は、もしかすると彼女がいつもの大鳥居の下で待っているのではないかという期待を抱いていた。しかし、その期待は窓に朧に映る彼の姿のように実態のあるものではないことにも彼は気づいていた。電車が駅に到着しても、彼はいつものように階段を駆け上る元気を持つことが出来なかった。彼女に会いたいという気持ちが彼の高揚の源であることに彼は気づいていた。地上に出ても、彼はその目を直ぐには鳥居の下に持っていくことができなかった。そびえる大鳥居を上の方から眺め、ゆっくりと視線を落としていった。期待は裏切られ、予測はあたっていた。鳥居の足元には、誰の姿も見つけることはできなかった。
“仕方が無い”という大人の感情と“それでも”という成熟し切れていない少年の希望とが、彼の手に携帯電話を握らせていた。着信もメールも入ってはいなかった。電話、メールを彼が発信して僅か十分足らずの間に、どれ程の事柄が進むものなのかはわかっている筈であった。その時、彼には彼女の置かれている状況など理解しようとする感情さえ持ち合わせることができないでいた。彼は、コンビニに寄り、お握りを買い、宮本と同じ銘柄のタバコを買い部屋へと向った。『もしかすると彼女が、部屋の前で待っているかもしれない。彼女は、部屋の鍵を持っていない。寒さと心細さに震えているかもしれない。今度、鍵を渡して置こう……』と再び、彼は微かな期待を心のどこかに抱いていた。その反面、『そんな筈はないさ……』という予測も同時に立てていた。
部屋の前には誰も立ってはいなかった。彼は、彼の手に持つ部屋の鍵がいつもより重たく感じていた。
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