マルチな関係…
満開であった桜も風に晒され、枝々には人々の心をひと時癒していた花弁もすでに殆んど残っていなかった。その日は、夜になり急に冷え込んだ。季節外れの雪が降った。積もると言う程ではないにしろ、カップに浮かぶ牛乳の脂肪膜のようにして捩れた白い紋帯が風に吹かれ歪に道に散りばめられていった。枝のあちこちに付き始めたばかりの薄緑色をした柔らかな葉が、グラニュー糖をふり掛けた和菓子の飾り物のようにも、新種の桜花のようにも見えていた。春一番が、三十年ぶりに冬の名残を運んできていた。 「あぁ〜、寒い」 村上博之は、校舎を出ると細かい埃のように夜空に舞う季節外れの雪を見上げながら呟いていた。三十年前、丁度このような雪の降る春の日に彼は生まれたのだと感慨深げに空を見上げた。 「Good night!」 彼の後ろから、生徒達が足早に追い越していった。振り返り、走り去る生徒達に答えるように、彼も手を振った。生徒といっても勤め帰りのサラリーマンやOL、大学生、それに定年退職者など年齢も様々であれば、教養、キャリアアップ、ブラッシュアップ等様々な目的を持ち集まっている生徒達であった。 「See you next week」 彼は、留学経験を活かし市内の英会話スクールに非常勤講師として務めていた。非常勤講師は保険やボーナスがあるわけではない。社員ほど、生活が約束されている訳ではないが、自由になる時間が多かった。彼は、小説を書いていた。非常勤講師であれば、もう長年書いている執筆活動にも十分に時間を費やすことができた。売れない小説の代わりに彼の生活を支えるには何の不服もなかった。彼の受け持っている授業は週四日、月火木金の午後三時から午後九時まで。手取り月二十万強の収入がある。家賃を払って、生活費。特に贅沢な生活のできる訳ではないが、拘束時間を考えると十分な収入と言ってよかった。それにまだほんの僅かではあったがいくらかの原稿料も入っていた。 授業を終えると寒さのためか足早に行き交う人波に揉まれながら駅の構内を抜け、地下鉄乗り場へと急いだ。これまでなら、同僚の講師達と駅裏にあるファミレスや居酒屋で安い食事をして帰っていたこともあったのだが、最近では授業を終え、その日のクラスレポートを書き終わると直ぐに学校を後にするようになっていた。 ホームに着くと、タイミング良く電車が入って来た。沢山の降車客と入れ替わりに彼は車両に乗り込んだ。ようやく、仕事から解放されたと感じる時であった。学校から出ても、電車に乗り込むまで通りすがる人の目は、彼にとって彼の授業を受ける生徒の目であった。 「先生、これはどういう意味?」 と無言に訴える生徒の目であった。こういう目を前にすると、職業柄なのか、彼には黙っていることがなにか申し訳ない気持がして、「どうしましたか……」と言う具合に誰彼となく話しかけなくてはならないという衝動に駆られてしまう。それが、電車に乗り込み、席に座り、ドアが閉まると、「ここはもう教室ではないのだ……」という気持ちにようやくなることができるのである。 電車が動き出すと、窓の外をホームの景色がゆっくりと夢の情景のように流れていった。その流れが忙しくなった次の瞬間。窓は、ヤスリで荒く磨かれた鏡のようにぼんやりと彼の姿を映し出した。車両がトンネルの中へと入っていったのである。彼はこの瞬間を好んでいた。仕事帰りの疲れているであろう彼の表情をくっきりと目の前に映されるよりも、遠い記憶のかなたに焦点を合わせきれず、それでも自分はそこに確かにいる事を教えてくれるこの時に好感を覚えていた。窓の外を流れる闇の中、トンネルにかかる電燈の灯りがフラッシュバックしながら時折彼の姿を吸いこんでゆく。薄く、また、次の瞬間には濃く彼の影を映し出すその様子は、彼の人生そのままのようで面白かった。丁度四駅目、時間にして十分少々。その駅へ着くまでの僅かな時に、彼は幸せを感じていた。 車両が駅に到着すると、彼は急いで改札へ向かう階段を駆け上った。改札を抜けると、また、急いで地上へと続く階段を駆け上っていた。地上へ出ると、夜の闇を冷たい風が揺さぶっていた。その風は、春の香りを僅かに含んでいた。 彼の視線は、地下鉄の入り口の脇、右手に見える赤い大鳥居を捉えていた。そして、その下に佇む、一人の女性の姿をすぐに見つけた。 『ごめんね、待たせて……』 彼は、心の中で呟きながら彼女の方に向かって軽く手を振った。 『大丈夫、でも少し寒かった……』 彼女も、手を振り返し彼の仕草に笑顔で答えた。暫くすると冷たくなった手を口元にあて、息を吹きかけ暖を取った。 遠くから見る彼女のこうした仕草は、何度見ても懐かしくまた愛おしく感じられた。
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