暗く深い闇が辺りを覆っていた。
穏やかな潮の流れがゆっくりと動いていた。
蠢く小さな生き物の影が無数に漂っている。彼らには目はない、光のない世界に住まうものには目というものは余分なものになってしまったのだろうか。彼らは目指すものの何かを知っているわけではない。ただ、彼らの乗る潮の流れに逆らわないよう潮の流れに任せて進んでゆくだけである。すると彼らの行く手から彼らの進む方向とは反対に向けた流れが現れてきた。その流れに圧されるように元来た流れに戻ろうとするものがいた。新しい流れに逆らうようにその流れに向かって進もうとするものもいた。彼らはいくつかの小さな群れに分かれていた。ある群れは行き場を失いそのまま死んでしまった。ある群れは果てない旅を続けやがて力尽きてしまった。またある群れは流れの穏やかなところを回遊していた。その中の一匹が体を休めようと何かに遮られ流れの止まっているところへと降りてゆくと彼は止まっていた筈の流れに飲み込まれてしまった。止まっていたと思われた流れは見えないカーテンのように緩やかに何重にも動いていた。休息場所を求めて彼の仲間がその中へと入ろうと試みていた。結局何重にも重なるカーテンの中に入ることのできたのはたった一匹だけであった。そのカーテンの中には甘美な香りを漂わせた生き物が捕食の為にじっと身を潜めていた。そして、流れのない中に潜り込んだただ一匹は結局待ち伏せしていた生き物に捕らえられてしまった。彼は、ただこのためだけに流れの中を延々と泳いできたのであった。彼には多くの仲間がいた。仲間と言っても意識してのことではなかった。ただ、同じ時に同じ場所で生まれたというだけのことであった。多くはただ泳ぐだけ泳いで、他の何をするでもなく己に与えられた時を全うして逝ってしまった。どれくらいの時を寿命と言っていいのかわからない。彼らは暗闇の中をただ泳ぐためだけに生まれてきたに過ぎなかった。彼らにはそれ以外の意識も使命も何も持たなかった。命尽きるまで、ただ泳ぐだけでよかったのである。歓喜も失望も脱力感も達成感も何もあるわけではない。彼らは泳ぐだけの存在なのである。
捕食された一匹はその命を捧げる事になった。彼はその命を捧げ新しい命の礎となったのである。
命の糧を初めて得た存在は、カーテンを硬く閉じた。そして、新たな糧を得るために寄生する場を求めてフワフワと流れの中を漂っていった。それは生きた糧を必要としていた。周りには先程まで泳ぎ回っていたものの屍骸が漂ってもいたが、命の感じられない抜け殻にそれは興味を示さなかった。そして、それは適当な場所に落ち着くと壁に根を張り新たな糧を得るための準備に取り掛かった。それは植物の様でもあり寄生虫のようでもあった。ただそれはそれ自身が生きるためにそうしていただけであった。他に何か特別な理由があるわけではなかった。
新たな糧を得たそれは、ゆっくりと成長していった。
一つの細胞が、もう一つの細胞を取り込んだことから始まり、命という殻は多細胞へと変化を始めていった。原始細胞から幼生へ、幼生から魚へ、魚から両生類へ、両生類から爬虫類へ、爬虫類から鳥類へ、鳥類から哺乳類へと長い月日をかけて変化を遂げていった。
どのような形に変化・成長しようともそれはただあるというだけの存在であった。歓喜も失望も喪失も成功もない。
それは寄生をし、自らを生かすために養分を得、存在しているのである。何の犠牲も払わずにただ存在することをのみ目的に十ヶ月余りの期間寄生を続けるのである。 人はどこからやってきてどこへ行くのだろうかなどどいう詩的な表現が陳腐に感じられるほど人はこの世に姿を現す以前から様々な命の姿を体験している。それは成長と言って簡単に済まされる程単純なものではないのであるが、誰も其処に自分のネイチャー(本能)の息吹を感じることは無い。人は忘れることによって成長する存在であるからかもしれない。その忘れてしまったことに対し無意識に悩みを持ちながら成長してゆくのが人の定めであるのだから。複雑に進化した体に刻まれた記憶が多ければ多いほど、その苦悩も多くなるに違いない。
生きると言うことがただ種を残すと言う意味においてあるとするならば、進化という身体の変化はそれ程に意味を持っているとは言えない。魚は魚としてそれ以上の進化は必要としない。反って進化から漏れた退化もしくは、停滞しているものを捕食をすればいいことなのである。進化の果てに、生存競争があるように退化をするものがいて自らの身を犠牲に他のものを生かそうという神の御手が働いても不思議なことではない。前に向かって進むことが生きることとするならば、後ろに向かうこともまた、生きると言うことには違いない。それなのに何故、人は前に向かうことにのみ生きると言うことを求めようとするのだろうか。ただ一度でも、誰か一人でも「そんなに頑張らなくても、あなたの時間の使い方でゆっくりと与えられた時間を過ごしてゆけばいいんだよ」と心から言ってくれる人がいればどれだけ気安く生きられるものか知れないのに。誰もが、何に対してか、がむしゃらに急いでいる。疲れても仕方の無いことだろう。
鳥のように優雅に空を飛びたいとは言わない、海でなくとも湖でなくともいい、池でも水溜りでもいい。魚のようにスマートでなくともいい、クラゲのように単純にただフワフワと漂うようにこの世の中を生きられないものだろうか。
「あぁ、何も見えない。落ちているのだろうか、それとも上っているのだろうか。ここでは声と言うのが何も意味を持たないようにも感じられる」
無意識の意識の中で考えているのか、それとも呟いているのだろうかもわからなかった。遠くで何かが聞こえている。暗い闇の向こうにうっすらと丸く光る窓のようなものが見えてきた。
「……、ぉ〜、ぉ〜ぃ、ぉ〜い、……か〜、お〜い、だいじょうぶか〜」
少しずつ、声がはっきりと聞こえてきた。身体が揺すられていることも感じられる。 有三は、いつ吸い込んだかも憶えてはない息を肺の中から吐き出すと瞼に蛍光灯の明かりが眩しく刺さるように感じた。
鼻の奥を消毒の臭いが突いてきた。真っ白な壁が蛍光灯に反射してより眩しく感じられた。
―何故、ここに…… と思うことがその時の彼には精一杯であった。
彼の周りで忙しく立ち働く人々の中に、彼の知った顔は見当たらなかった。その代わりに犬のような、猫のような、猿のような、魚のような、鳥のような、イルカのような顔をしたどこか懐かしい様相が目に付いた。
「ふっ」と力なくため息とも、笑いともつかない息が口元からこぼれた。
―俺はいったいどんな顔をしているのだろう と考えると彼は可笑しくなってきたが笑うだけの力は身体のどこからも湧き上がってはこなかった。
天井を見上げると、目じりを涙が零れたようであった。
「気がつきましたか」 猫のような優しい目をもった女性が声をかけてきた。
彼は、瞬きをしてその声に答えていた。
「もう少し遅かったら、危なかったかもしれません。でも、よかった。ゆっくり身体を休めてくださいね」
着衣からするとその女性は看護士のようであった。
彼女は、純白の毛並みをキラキラと輝かせて子猫を温かな眼差しで見守る親猫のような表情で囁いた。見知らぬ筈の彼女の言葉は、彼の心に血液の流れを蘇らせるに十分な息吹を与えていた。
「あ・り・が・とぅ」 と掠れながらの言葉が彼の発した始めての言葉となった。
ありがとうと言って涙が零れたことは不思議でならなかった。
有三は、これまで随分と涙の持つ温かさを忘れていたような気がした。
まだ、幼かった頃、さようならと言って泣いて、友達と別れた。ごめんなさいと言って声がそれ以上出ないほど泣けてきたことがあった。おめでとうと言われて涙が流れた、そして、ありがとうという言葉に目を潤ませたことがあった。
悲しくとも、嬉しくとも、悔しくとも、つらくとも涙を流したことがあった。何をこんなにまでして、今まで我慢をしなくてはならなかったのだろうかと不思議に思われてきた。涙の自然に流れてきた時、これまでの日々の全てが滑稽に感じられた。
―もう何も我慢しなくともいいのかな と思ったとき、彼の心の声の聞こえるはずの無い彼女の瞳が頷くように瞬きをしたように見えた。
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