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作品名:刻印 作者:宮本野熊

第7回   (七)
 ―なんでこんなにまでして生きてゆかなくてはならないんだろう……

 ベッドに身体を横たえ、灰皿から吸い残りのタバコを探しながら有三は考えていた。

 金も仕事も相談する相手の誰もない状況の中、舌に苦く喉に熱い肺から吐き出され揺れ立ち昇る煙だけが彼の傍にある生き物のようにも感じられていた。雲のように立ち上る煙は、天井に上る手前で輪が崩れ鼠のようにも猫のようにも犬のようにもなり紫煙が紫煙を飲み込んでいった。次第に、フィルターの焼ける臭いが鼻腔を刺すように流れていった。その臭いは彼にもうこれ以上どうにも行き場が無くなったことを告げているようでもあった。

 缶の底に残っている気の抜けたビールをグラスに集めて喉に流し込むことも彼の心を一層惨めにさせていた。

 目を閉じて振り返ってもそこに何が見えるという訳ではなかった。通り過ぎてしまった時間は一体誰のものだったのだろうという疑問が浮かんでは消えていった。

 海の底から湧きあがる一抹の気泡にも生まれた時がある。その泡は海流に揉まれ岩に阻まれ魚の群れに擦られてそれでも海面を目指して登ってゆく。ただの沫にも歴史があることを思うと、有三は目を閉じて思い出すことさえ億劫になる彼自身の歩いてきた時がはっきりとしないことに苛立ちを感じないではいられなかった。どうかすると、生まれたという記憶の無いことに、彼は実在していると思い込んでいるだけで、本当は存在をしていないのではないかとさえ感じてもくる。テレビドラマのエキストラのように唐突に影のように姿を現し、いつの間にかいなくなっている存在。存在であっても非存在であったところでどちらにしてもそれ程意味のない幻に過ぎない存在。時の風景にさえ認められないこの身がどのようなものであるかなど考えてみたところで、そこにどんな意味さえも見出すことのできない虚しさは、寂しさよりも刺々しい針をもって、しかし痛みをさえ感じさせることなく体中の血が知らずの間に抜き取られているようでもあった。

 せめて窓の向こうに見えるぼんやりと憂う半月のように誰かの目に止まることがひと時でもあればどれ程かこの虚しい心が埋められるのだろうとも思った。それでいて、心も身体も飾ることには時を経るに従って疲れを感じないではいられなかった。

 人と会う事を拒絶する気持ちと一人ではいられないという思惑の相反する感情が有三の心の内には同居していた。頭にも、心臓にも、身体にもそれぞれ違った人格が備わっているだろうことはこれまでの経験から辿りついた人間観である。そして、それぞれは表裏を備えている。合わせると人間は六つの人格(心)によってコントロールされているということになる。

 ―もしかするとそれ以上なのかもしれない……
と今、彼はぼんやりと考えていた。

 うつろな意識の中、携帯がサイレントに着信を伝えていることに気づいた。
誰からかかって来たところで出るつもりはない。ただバイブレーションを続け光る画面を見て誰からなのかを確認するために、彼は体を起こした。そして手を伸ばした時、バイブが止まった。もう誰からでもよかった。確認することにさえ煩わしさを感じ、彼は手を引っ込め、再びベッドに体を横たえた。

 ―有三……、有ちゃん、ゆう……

 彼は、彼が人から呼ばれる時の名前を頭の中で繰り返していた。

 「これって一体誰のことなんだろう……」
と呟きながら自分の何者かも、存在すらも認識できないようでもあった。

 池に泳ぐメダカも、空を飛ぶスズメも、土に埋もれているミミズにも生きていると言う実感はあるのだろうかと考えて見るが、答えなどわかる筈もなかった。はっきりしていることと言えば、彼らは彼らを捕食しようとする何者かの気配を敏感に感じ、彼ら自身の生命の危機から懸命に逃れようとする能力を備えているということだけである。しかし、今の有三にはそうした生命力の欠片さえも備わってはいない。それがいつからなのかは、わからない。もしかすると、生まれつきそうした感覚にかけているのかもしれなかったし、いつの間にか無くなったのかもしれなかった。生命力の無い生命には思考力さえも残されなくなってしまうのだろう。“あぁ”というため息をつくことにさえも力を必要とするのだと思うともう何も出てはこなかった。

 ―もしかしたら、死ぬということにさえもなんらかの力が必要とされるのだろうか……

 もしそうだとすると……、生きることも死ぬこともできないこの身はいったい……
もうどうにでもなればいいと思うことさえ億劫に、体をベッドに横たえていることも早く忘れられればどれだけ幸せなのだろうと、考えたくも無い“幸せ”という響きが耳鳴りのように木霊して、頭痛がして吐きそうな程に気分が悪くなった。胃液が喉のすぐ下まで上がってきたのか胸に暖かさを感じた。谷崎の異端者に記されていたような死ぬ間際にウンチがしたくなるというような感覚はなかったが、少し小便を漏らしたのではないかと思われるように、液体の前立腺を流れたイタ冷たい感覚を下半身に感じた。いつの間にか耳鳴りが気にならなくなってきていた。背中に感じていた体の重さも、首のだるさも、額に垂れていた蟲の這うような髪のさやめきも記憶の底に沈んだように何も感じなくなってきていた。足先は小刻みに痙攣をしているが、その痛みも感じてはいなかった。ただ、喉が渇いたと思った。

 死と言うことを本当に体験して生き返った人の話は聞いたことがある。しかし、徐々にこうして死んでゆくんだという話は聞いたことが無い。肉体が死に向かう過程の話は聞いたことがなかったが、有三にはこれが死に向かい進んでゆく肉体の変化なのだろうと感じていた。そこには花畑もトンネルの先の光も三途の川もなかった。

 その時有三は、
―俺は死ぬのか……
と思った。

―これが死ぬと言うことなのだろうか
と思ったとき、喉の奥が乾いた音を立て細く短く息が通り過ぎて行った……。


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