酒とタバコの臭いで淀んだ部屋の空気を入れ替えようとベランダへ通じる窓を開けた。
黄ばんだレースのカーテン越しにぼんやりと見えていた街並みも、ベランダに出て見渡す街並も、相変わらずどちらも同じようによそよそしく感じられた。もう何年も住んでいるのにもかかわらず有三はその一部にさえ馴染むことができなかった。 ―俺が拒否をしているのか、それともこの街が俺を拒否しているのか…… 有三は手摺りに左肘をつきタバコに火を点けた。彼の体から出るすべては、例え吐き出す煙でさえ街の空気に溶け込むことを拒むように塊のまま風に流されていった。 ふと見下ろすと、すぐ下の道路を体毛の長い野良犬が力なく歩いていた。車が通るたびにその犬は道の端に寄り立ち止まっては車の行過ぎるのを我慢し見送っている。風圧で揺れる体毛はその犬の孤独を煽っているようで、見ている有三の心を絞めつけた。有三のマンションの前まで来た時、その犬が鼻をひくひくさせながら空を見上げた。そして、ぼんやりとその様子を見ていた有三と目が合った。犬はしばらくじっとしたまま彼を見上げていたが、やがて欠伸をすると彼にはもともと関心がなかったとでもいうようにゆっくりと歩を進めていった。
目の前の電線に止まろうとしたスズメが、ベランダにいる彼の存在に気付くと急いでどこかへ飛び去って行った。 遠くの方に見える雲間から射す陽の光さえも明らかに彼の上を照らすことを躊躇い揺れるように明滅を繰り返していた。ぼんやりとしていると騒音さえも聞こえなくなっていた。時間が止まった訳ではない、いつ呼吸をしたのかさえもわからないまま有三の命は一瞬あの男のようにして突然脈打つことを忘れたのかもしれなかった。
―何もない、何もない、何もない……。何もできない、何もできない、何もできない……。どうしたらいいのか……。
ため息気を漏らすことにさえ、何かを失ってしまうようで、有三は一度出かかった息を思わず飲みこんでいた。
―これから先に何も希望が見えない……
上から見下ろすと不思議に道路がすぐそこにあるようにも思えてきた。手を伸ばせば地面に手が届きそうにも感じられる。身体が水の中に居る時のように軽く感じられた。 ベランダの手すりを両手で押し下げると直ぐにでも抵抗なく空へ向かって身体が跳ね上げられそうであった。無意識に身を乗り出そうとした時、手すりに身体を支えている手が滑り前のめりに倒れ壁に顔を強く打ち付けてしまった。その拍子に額から右頬にかけて大きく擦り傷をつくってしまった。丁度あの男が足を滑らせたような格好に彼は思わずその場に蹲っていた。顔を押さえた手には血が滲んでいた。鼻から落ちたと思われる血がベランダのコンクリートに一滴一滴様々な大きさの赤い円を幾つも描いては堕ちていった。
このひと月の間に二人の死に立ち会うことになった。生きていてもうどうしようもないと思われる状況の中それでも有三は命を失うことはなかった。絶望というものがどのようなものなのか、未だに理解できないでいた。それでも彼は、まだ生きていた。去年の自殺者は三万人を有に超えていた。今年は、そうして数えられる一人になるのかもしれないと潜在的に感じてもいる。彼には、苦しい生活を耐えながら何故生きなければならないのかがわからなかった。世の中に溢れる軽薄な楽しさの意味がどうしてもわからなかった。明るくなければならない意味も、前向きに生きなければならない理由もこの歳になってさえも理解できないでいた。人は誰に迷惑をかけることなく生きてゆくことはできない。そのことに対する疑念の消える事はなかった。部屋を借りている限り、電気を必要とする限り、水を必要とする限り、ガスを必要とする限り、食べ物を必要とする限り、自らの命を保つ限りにおいて人と係らずにはいられないことにもどこか素直に承知できない思いがある。
―人は一人では生きていけない。何故一人では……?
家族と言う関わりの中にも、友人関係にも、街にも、会社にも、学校にも、どこにも……、自分は一人ではないという安穏と心を許して落ち着くことのできる場所などどんなに探そうとしたところで見つかることはなかったのに、それでも人は一人では生きていけない。一人じゃないっていう戯言がそこここに幻のように漂っているだけなのに……。ただ、単に可笑しなものだと一蹴することにも躊躇せざるを得ない。誰も助けてはくれない、誰も頼りにできないのに一人ではないという矛盾。誰も親身になって話を聞いてくれはしないのに一人じゃないという欺瞞。どうやっても何も解決できないのにも関わらず元気出せ頑張れという軽薄の強要が溢れていた。
顔の痛みを我慢しながら有三は立ち上がった。キッチンで顔を洗い、鏡を覗くと額から右顎に掛けてひどく傷ついていた。
「当分店にも行けないなこれじゃ」 と誰にともなく言葉を洩らしていた。
店長に電話をして、顔にひどい怪我をして店には出られそうにないと話すと新しい若いバイトが入りそうだからもう来なくてもいいと告げられた。バイト料は、来月末に取りに来いと言われ電話は切られた。
なんでも簡単に電話とメールで済んでしまう、今の世の中とはそうしたものに違いないと感じさせられた。
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