コンビニから、後を付いて来る男が居る。コンビニを出る時薄汚い衣服が蛍光灯に照らされていた男の側を通った。その時、男からは犬の匂いを感じた。一瞬目が合ったとき有三は嫌な気分にさせられた。もしかしたら何年か後にはこの男と同じ境遇になるのではないかという不安、何年も経たなくともそうなってしまうのではないかという焦燥を感じたからであった。その男はまだ若いようでもあった、少なくとも有三よりは若く見えた。
男が有三の後を付いて来ているのかどうかはわからなかったが、辺りが暗くなるに連れ恐怖とは往かないまでも不快な心を抑えることはできなかった。 有三は一瞬立ち止まった。
男は、何事もなかったように有三の脇を、捨てられて間もない飼い犬がそれでも飼い主の姿を求め彷徨うように肩を窄めて通り過ぎていった。そして、有三は黙ってその後ろ姿を見送った。そして、有三の側を通り過ぎ、二三歩歩くとその男は、立ち止まり、振り返った。
「あの〜、すみません。五百円でいいので恵んでもらえないでしょうか。仕事を探して北陸から出てきたんです……。金がなくて、歩いて来たんです、食べ物を買うこともできなくて、ずっと何も食べてなくて……。どうかお願いします……」
そういうと男は、有三を拝むようにして道にひれ伏した。
咄嗟の事に有三は言葉がでなかった。
気味が悪い、気分が重い、臭い、そして、なんで俺が……、という気持ちが湧き上がった。早くこの場を立ち去りたいとの思いから、有三は目の前に伏す男を避ける様に道の反対側へ向って歩いていた。
後ろからは、男の悲痛な唸るような独り言ともとることのできる懇願が聞こえてきた。
「お願いします〜、お願いします……、あぁ、お願いします……。助けてください、お願いします……」
有三には物乞いと乞食と浮浪者の区別はつかなかったが、
「乞食……」 と心のどこかで呟いたことは間違いなかった。
その場で呻き泣くように零している男は追いかけてくる様子はなかった。遠くなる男との距離に安心を感じながら、有三は哀れな男に恵んでやるだけの金がないことに彼自身の哀れさを露呈されたようで寂しさを感じていた。
「五百円でいいので……」 という男の言葉が反芻していた。
「その五百円さえ、今俺は持っていないんだ。助けてもらいたいのは、俺の方なんだよ……」
有三は誰にともなく言い訳を零していた。
男と有三の違いは、今日寝る場所があるかないかだけでしかなかった。ただ、それだけでも大きな違いではあるのかもしれない。
有三は、その男に出会ったことで彼自身の不甲斐なさを露呈されてしまったようで憎悪さえも感じ始めていた。
「誰も、大変なんだよ……」
唾を道に吐いて、小声で自分に語りかけていた。
角を曲がる時、チラッと男の方を向くと、男は壁に頭を打ち付けていた。何度も何度も、狂ったように打ち付けている姿が目に入った。
有三は立ち止まり、警察にでも連絡しようと思ったが、携帯は部屋の中であった。
『あのままじゃ、死ぬんじゃないか、あいつ……』 と思うと男の死んでしまうことが有三の責任にされてしまうのではないかという別な不安が彼の心に湧き上がってきた。
同時に、汚い風体の見ず知らずの男の要求を無視したところで、誰に責められる事はないだろうとも思われた。
すると男は、大きく身体を反らし全部の体重を預けるようにして思いっきり壁に頭を打ち付けた。そして、「ぎゃっ」と叫ぶとそのままコンクリートの壁に凭れかかる様にしてうな垂れ崩れていった。
有三は慌てて男の倒れている場所へ走っていった。男の声を聞いたのか壁の向かいにある家からも、人が出てきて目が合った。
「どうしたの!?」 というその家の人に答えるより先に有三は男の倒れている場所へと急いだ。
仰向けに寝かせた男の額からは、血が溢れるように流れ出ていた。有三は血の流れ出る箇所を手で押さえながら壁に目をやった。そこには血の飛び散った跡に男の皮膚を削ぎとり、先から一滴の黒い雫が地面に落ちようとしている先の尖った鉄骨の杭が突き出していた。
「大丈夫か!」 と叫びながら男を揺さぶると一瞬意識を取り戻して笑ったように見えた。
「もう五百円もいりません……、ごめんなさい、ごめん……」 そう囁くと小さく息を吸い込んでそのまま動かなくなってしまった。
「警察!救急車!」
有三は背後に立っている家から出てきた人に向って叫んだ。
直ぐに警察がやってきた、その後救急車が到着し止血の応急処置をすると男を載せてどこかへ行ってしまった。
止血はもう必要なくなっていたことは、有三にはわかっていた。彼の手には男の生きた証がこびり付き、足元には水溜りのようにして男の血が溜まっていた。
有三と家人は警察から事情を聞かれた。
有三は、コンビニからありのままを話した。
「五百円くらいあげればよかったのに……」
家人は迷惑そうに、有三に対し卑下の表情を隠さずに吐き捨てた。
「五百円くらい?」
有三は、家人を睨むとその先は言葉にならなかった。唇は震え、涙が溢れてきた。男の血が粘つく手を握り締め、歯を食いしばり嗚咽を抑えるだけが精一杯であった。誰にも有三の涙は理解できなかった。
警官は、 「まぁ、そう言ったことは今更、言わないようにしましょう。ただ、状況だけをお話いただければ……」 と有三を弁護する言葉を使ったが、その目にも彼は温もりを感じることはできなかった。それが却って有三の気持ちを冷静にさせたのかもしれない。彼は、家人の玄関先にある水道を指差して、
「使わせてください」 と言うと承諾を待つことなく、そこへ向って歩を進め蛇口を捻った。
返事をする間のない行動に迷惑そうな表情を隠すことなく家人は有三を黙って見ているだけであった。
有三の手にこびり付いた血は乾き始めており、中々落ちる事はなかった。擦っても、擦っても暗闇に映し出される手には血がこびり付いているように感じた。涙に濡れている顔を洗うとどこかからあの男の匂いが感じられた。コートの袖にも血が付いているのかもしれない。あの男の身体を手で支えた時、コートに男の匂いが染み付いたのかもしれなかった。その時、有三は不快な気持ちを感じることはなかった。どこか懐かしい覚えさえ感じたことが不思議であった。
サイレンの音で人だかりの出来る中、現場検証は進められていた。有三はパトカーの中で事情を聞かれた。その途中無線連絡が入りあの男が死んだことを伝えてきた。有三は無性にタバコが吸いたくなった。彼は外に出て、パトカーに凭れタバコを吸った。 たった五百円のために命を落とした男がいた、たった五百円のために命を救うことができなかった有三であった。
後から聞かされたところでは、壁から出ていた杭は危険だと言うことで近所からクレームが上がっていたらしい。男が頭を打ち付けていた個所はその杭からは離れており、最後に身体を反らせたと思われたのは男が足を滑らせたらしいということであった。その拍子に頭を打ち付けていた場所がズレてしまい運悪く杭のところへ頭が行ってしまったらしい。足元には男の横にずれた足跡が残っていた。運が悪いと言ってしまえばそれまでである。男の遺留品の中は、所持金が小銭ばかり二万円程あったということも聞かされた。有三はあの男よりも金の無いことが情けなかった。
『俺はいったいなんのために生きているんだ……』 部屋に戻り、横になると天井を見つめながら、呟いた。その時、あの男の酸臭がかった獣の臭いがどこから漂ってきた。
|
|