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作品名:刻印 作者:宮本野熊

第2回   (二)
(二)

「いらっしゃいませ〜」

 薄明りのホールに有三の声が響いていた。

 客を案内する動作もまだどこかぎこちなかった。一週間前から彼はキャバクラのボーイとして働いていた。四十六歳と言う年齢を考えるといささか場違いの感は否めなかったが他に働き口も見つからず当面の生活費を稼ぐためにようやく見つかったのがこのしごとであった。

 大切な友人を酒が原因で亡くした葬儀のその日に酒を売る仕事をしていることに彼は違和感を覚えずにはいられなかった。ホールから見る客の姿は彼にはどこか哀れに感じられていた。有三の勤めるキャバクラには一人でくる客が多かった。接待でもなければ、仲間と飲む訳ではない酒。ここに来る客は酒が目的と言うばかりではないのであろう。女の子からの誘いのメールか電話があったのかもしれなかった。一人で席に座り周りを見回し気を使いながら飲む酒に旨いと感じる筈もない。それでも客はやって来た。何のために?有三は自身が客であった時のことを思うと彼自身の哀れであったことがどことなく情けなくも感じていた。得体の知れない寂しさは誰にでもあるものなのだろうと思われた。その寂しさが埋められる筈の無いこともわかっている。それでも一人で家に籠ることに耐えられずにネオンを目指してしまう。

 有三は気を遣いすぎないよう、気を掛けなさすぎないよう接客に努めた。

 こういった仕事に就く人間には人には語ることのできない事情のある者が多いと思っていたが、実際勤めてみるとそうばかりとは言えない。水商売に飛び込む男も女も他の仕事をするどんな人とも変わりがある訳ではないと彼の目には映った。ただ、金が必要と言うことからすればそれは他のどんな仕事と何も変わらない。
 有三もその一人である。
 
 これまでは客として飲みに出る事はあったが、実際にこういう仕事をすると見えてくるものがある。

 誰も心のどこかに寂しさを持っているものだと彼は思う。その空虚な心の穴を例え一時であってさえも埋めるのがこの仕事の本質であると感じながらも、本当ならこういうところに頼らないでもいられるような生活をしなければならなかったのだろうとも思った。

 店で働く男性の中では有三は年長になる。

 一回りも二回り近くも歳下の店員や客に媚びるように働く姿は決して美しいものではなかった。しかし、今、彼にはこの仕事以外に生活の糧を稼ぐ方法はなかった。諦めというしかない状況に彼の年齢まで達していながら他に何も仕事のないことに虚しさを感じた。

 酒が原因で亡くなったに違いない先輩の葬儀が終わったその日にこうして酒を売る仕事をしていてもよいのかという自責の念の消える事はなかった。

 もしかしたら、亡くなった先輩が彼のこんな姿を見て侮蔑の念を抱いているのかもしれないと思うととことんまで情けないような気がしてたまらなかった。それでも今はどうしようもない状態には違いなかった。

 これからのこと、実際にはどうなるのか、彼自身にも分らないが、この状況が一生涯続くものとは思いたくはなかった。

 ただ、今はどこまでも耐えるしかなかった。いつまで耐えなければいけないのかは想像がつかなかった。


「おい、あんた新しい店長?」

 年齢的にはお客からはそう見えるのだろう。

「いいえ、見習いです」

 有三はアルバイトであるとは言えなかった。金のためとはいえ定職を持つことが出来ず場末のキャバクラにボーイとして身を窶していることは彼自身にも納得できてはいなかったからであった。生きるためという言い訳と、ただのアルバイトとしての境遇は彼を惨めな気分にさせていた。客に哀想を振りまくでもなく、テーブルに客の飲む酒をセットし、客の帰ったテーブルを片づけ、カラオケをセットし、グラスを洗う、誰にでもできる仕事であった。そこには目指す何ものもなかった。

 客が引けると、洗い物をしながら彼は呟いた。

「先輩……、これが俺の今の姿です……。笑っちゃいますよね、人はというより俺はどこまで落ちて行くんでしょうか?ふふっ……」

 三か月前まで、有三は会社を経営していた。その会社を潰し、職を求めて友人・知人にも相談をしてみた。結果、どこからもいい返事をもらうことはできなかった。職業安定所にも登録をしているが資格も何ももたない彼には行く先は見つからなかった。負債、個人の借り入れ、今は別れて暮らす妻子への仕送り、自身の生活費と必要なお金はいくらあっても足りなかった。焦ってもどうしようもないことはわかっていたが、何もしなければ催促のきつくなることを待つだけであった。返済の予定を聞かれても、入金の予定などある筈もなかった。

 今更後悔してもどうなるという状況でもない。一時は死ぬことも考えたこともあったが、彼は死を選ぶほど強くはなかったし、死を選ばなければならないほど真剣に生きてきた訳でもなかった。

 彼は生きると言うことの何もわからないまま世間の風に流されるように生きてきていた。ただ生きたという年月を過ごしてきたというだけのことであった。何の役にも立たず、誰のために何をしたというわけでもなかったのだろうと慰めにもならない自戒に心を飲みこんでいた。

「すみませ〜ん」
というコンパニオンの声に
「はい!」
と答え足早にテーブルに向かい跪いた。
「コーラください」
「レディスコーラお一つですね、かしこまりました」

「失礼します……」
跪きながらグラスをテーブルにセットすると
「ありがとう……」
という客と女の子の言葉に有三の落ち込んでいる気持ちは少し救われるようであった。

「すみませ〜ん」
 別のテーブルから声が掛かった。

 客の前ではダウンサービスと決められているため、テーブルの前ではいつも跪かなければならなかった。四十半ばの年齢にはこの動作はかなりきつかった。

「あなたおいくつですかって、お客さんが……」
と女の子が客の方を指さし話してた。

 有三は少し困ったような視線をその客に向かって作った。

「わたしですか?」
有三が言うと、
「いくつくらいなのかなって思ってね」
と客が訊ねた。
『いくつくらいに見えますか』
と訊ね返そうと思った言葉を有三は飲みこんでいた。
その代わりに作り笑いを顔に湛え、
「四十少し超えたところです」
と答えていた。
 
 プライドなど持ったところで何にも役に立たないことは分っていたが、彼は些細な抵抗をしていた。客に対してではなく、彼自身の置かれた現実に対しての抵抗であった。

「そう、ひつじ年?」

 客は、確かめるように話を止めなかった。
「……はい、そうです」

 有三の妹の干支と同じであったことが幸いしていた。

「お客さんがね、三十五歳くらいじゃないかって、言ってたの……」

「いいえ、もう四十は超えてます」

「ありがとう……」

 彼より明らかに年下の客は満足そうに、そして、気の毒そうな表情でグラスを手にして口に含んで言った。

「失礼します……」
と頭を下げると有三は膝に刺すような痛みを感じながら立ちあがりテーブルを後にした。


 彼はホールの決められたポジションに立っていた。

 店内を見渡すと様々な客がそれぞれに女の子と話をし、酒を飲み、カラオケを歌っていた。ほんの少し前までは彼もその中にいたことを思うと無理に笑顔を作らなくとも頬が自然に緩んできた。

 どん底から立ち上がったという成功談を有三は思い出していた。しかし、本当のどん底から立ち上がった人などいるものかと思われた。何もかもの無くなってしまった状況から実際には立ち上がることなど到底できはしないと思われた。本当のどん底とはただ吸い込まれるだけの奈落としか思われなかった。『いつか必ず這い上がってやる……』という希望的信念だけで生きてゆくことはできなかった。生きるには金が必要であった。信念を少し迂回し、生きる事を優先することで人は命を燃やす情熱を失ってしまうのかもしれないとふと彼は考えていた。

 流されてきただけの人生に彼はどんな信念もなかったのかもしれないと思った。
かつて事業を営んでいたことも今となっては滑稽に感じられた。何を思って事業を始めたのかを思い出そうにも思い出すことはできなかった。金を稼ぐということに信念など持ったところでなんの意味のもたないことは彼の現状が証明していた。

 「何のために……生きているのか、何のために仕事をするのか……?何のためにこの世にあるのか?」

 その疑問に対する答えの見つからないまま、いつの間にか四十六年が過ぎていた。

 その時遠くのテーブルでチェックを済ませた客が立ちあがった。

「ありがとうございました!」
ホールに従業員の声が響き渡った。

 有三はホールの入口近くに立っていた。客が彼の前を通る時、彼の肩を抱きながら握手を求めるように片手を差し出した。

「頑張れよ!」

そう言って有三の手を固く握りしめた。

「はい、ありがとうございます」

 とっさに有三は両手でその声と手の温もりに応え頭を深く下げていた。
客の背中を見送りながら有三はありがたい言葉だと思っていた。しかし、時間のたつに連れ彼は何を頑張ればよいのかという疑問を感じ始めていた。

―あの言葉はどんな意味を含んでいるのだろう……

 彼には素直に受け入れる事が出来なくなっていた。そんな彼自身はつまらない人間であると思われた。見知らぬ客の言葉は彼にとっての励みになると同時に彼を蔑む言葉にも聞こえてならなかった。

 新しい客が入ってきた。

 彼は、
「いらっしゃいませ!」
と言わなければならない彼自身の姿に憐憫を感じないではいられなかった。


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