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作品名:刻印 作者:宮本野熊

第1回   (一)
   刻印
                                   宮本野熊
(一) 
 
 犬は犬として、猫は猫として、鳥は鳥として、魚は魚として、蛇は蛇として、虫は虫として……。それぞれに……らしく、吠え、鳴き、囀り、それぞれに……らしく泳ぎ、這い、飛ぶ。らしくということのどのようなことかを考える訳でもなく、それぞれにらしく生まれ、そして死んでゆく。それぞれの命は……らしいという殻を破ることはない。
 
 犬は犬であることを悩まず、猫は猫であることに苦しまず、鳥は鳥として生まれたことに悲哀して涙を流すことはない。魚も蛇も虫も何故こうして存在しているのかを考える事はない。彼らの存在は無意識の絶対であり、その命の儚さを彼らはきっと感じる事はないであろう。彼らは罪を背負わずしてこの世に生まれ、罪に苛まれることなく死んでゆくのである。彼らは命ある事に悩まず、死を恐れず、その身体に刻まれた通りに生命を繋いでゆく。彼らに刻印された殻の破られることはない。
 
 人は、……?

 人には、犬のような、猫のような、鳥のような、魚のような、蛇のような、虫のような、……、人がいる。犬のような人は猫のような人になりたいと……、鳥のような人は魚のような人になりたいと……、蛇のような人は虫のような人になりたいと……、虫のような人は犬のような人になりたいと……、もがき、あがき、苦しみ、懊悩し、最後に人は、人の殻を纏ったままその殻の何であるか、己が存在の何ものかも知らないうちに死んでゆくものなのかもしれない。

 せめてその時を迎えるに際し一瞬の幸せをでも感じる事の出来れば、それが人として「らしくあった」ということなのかもしれない。

 山元有三は、「一生の付き合いだ……」と一か月前に笑って話していた大切な友を亡くした。彼は、一体なにを想い殻を抜けたのだろう。棺の窓の下に横たわる彼は、安らかというに相応しい顔をしていた。表情のない彼の死に顔を見て、つくづくいい顔をしていると思った。歌舞伎役者のようにつり上がった切れ長の目尻は今にも皺を造り、
「冗談だよ、冗談……」
と笑いだしでもしそうな雰囲気があった。
 生前、酒をよく飲んでいた時には浅黒かった肌も化粧をしているかのように透き通っていた。美しく滑らかな肌のきめは、毎日手入れを欠かさない女性の肌のようであった。ただ、薄く開いた口元は硬直し隙間から覗かせた歯は黄色くくすみ乾いた生気のない死者の匂いが箱と外を隔てているガラス越しにも感じられた。蝋人形では造ることのできない、死者の息づかいとでもいうような造詣が口元には見られた。今際の最後、死水の替わりに大好きだったのか、大嫌いだったのかわからなかった酒でも含ませてもらったのだろうか。
 有三は両手を合わせ、
「ご苦労様でした」
と呟き棺に眠る友人に頭を垂れると、まだ葬儀の始まらない式場を後にした。

 有三と入れ違いに沢山の参列者が式場に入って行った。その中には知り合いの顔もあったが声を出すと喰いしばっている顎から力が抜けようやく堪えている涙が溢れ、声を上げて泣いてしまいそうで目礼を交わし早々に駐車場に止めてある車へと急いだ。
「近いうちに飯でも食べに行こうや……」

 つい二週間程前に棺に眠る友人と電話で話したばかりであった。

 何故、彼は、あれ程までに身体をボロボロにしながらに酒を飲まなくてはならなかったのか?
 一か月前、日曜の朝、酔った声で電話があった。

「山ちゃん久しぶり、元気か〜?あははっ……」

「元気ですよ……。調子いい声してますね、朝から飲んでるんですか?」

 彼は、有三より五歳年上の先輩と呼んでいる今年、五十歳になったばかりの友人であった。

「そう、飲んでる……。ははは……」

「大丈夫ですか、声でだいぶ飲んでる事わかりますよ」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと山ちゃんの声が聞きたくって電話したっの、はははっ……」


 先輩との付き合いは、十三年前からである。二人が所属する青年会議所の食事会で隣り合わせになり、たまたま同じ高校に通っていたとわかって意気投合しそれからよく一緒に飲むようになった。先輩は酒が好きではないと言っていたが、それでもよく飲んだ。自覚しているところもあったのだろうが、「はははっ……」という笑い声が頻繁になると急に乱れた。人に絡むわけでもなく、誰にひどい迷惑を掛けるという事のない酒乱であった。飲んで酔い、自爆するタイプの酒乱であった。ただ必然的に一緒に飲む人に面倒は掛けてしまう、飲んでは吐き、吐いては飲み陽気に騒いでいたかと思うといつの間にか眠ってしまった。その後、酔った先輩の重たい体を引きずりながら自宅に送り届けることが有三や同席したものの仕事になった。タクシーに一人乗せても家には帰れず、途中で降ろされてしまうことが多かった。誰かが一緒にいなければならないことを迷惑と言えば言えないこともないが、その程度の酒乱であった。

「最近どうしてるの、はははっ……」

「特に、どうにもしてないですよ。景気悪くって仕事が全く駄目で飲みにも随分出てないですよ」

「そうなんだ。俺も大変だよ。はははっ……。うまくない酒飲んで、酔ってばかりで、とうとうアル中になっちまった。はははっ……。アル中、アル中、こないだ更正施設に入院して、出てきたらまた飲んで、飲まなきゃやってられないって感じでさ、はははっ。山ちゃん、でも人間って不思議なもんで中々死なんもんよ、はははっ……。また、電話するわ、はははっ……」

 そう言って先輩は一方的に電話を切った。
 有三は、大丈夫かなと思いながらも携帯をポケットにしまった。するとまた、先輩から電話がかかって来た。

「山ちゃん、ごめんね何度も、はははっ……」

「いいですよ、そんなの。どうしたんですか?」

「寂しいな……と思ってね……、違うか?はははっ……。あのね〜、山ちゃんに言っておかなきゃならないことがあってさ、はははっ……。山ちゃん、人間って簡単には死なんもんや、はははっ……」

「先輩さっき同じ事言ってましたよ……」

「そうか、はははっ……。山ちゃん……」

「なんですか、……」

「山ちゃんとは、一生のつきあいやで。はははっ……」

「ありがとうございます、ホントですよ。でも、あんまり酒は飲まないようにしないと本当に死んじゃいますよ」

「大丈夫、人間ってそう簡単に死なないものらしいから、はははっ……。じゃ、今度飯でも誘うから。それじゃね、はははっ……」

 また、先輩は一方的に電話を切ってしまった。

 本当は言うとおり、先輩は酒が好きで飲んでいるのではないのだろうと有三は感じていた。自分を自分で無くするために酒を飲み始め、その内に身体が酒の効用を覚えてしまい、いつからか酒がないとどうにもならなくなっていたというところなのかもしれない。そうして、飲んでも決して酒を好きになることなどなかった。酒を好きになる必要などどこにもないこともわかっている。それでも先輩は飲み続けた、終いには身体が求める限り飲み続けなければならなくなっていた。

 あれだけ酔っていたら、どんな話をしたかも憶えてはいないだろうと有三には思われた。実際、それから先輩からの電話は二週間たっても掛かっては来なかった。その内、有三の方から電話をすると仕事で出張中だから帰ってから食事に誘うよと普通に会話をしていた。酔っていない時は、丁寧過ぎるくらいにどこかよそよそしさを感じさせる先輩の口調は有三にはいつも可笑しく思われた。

 それからまた二週間、有三は先輩の訃報の連絡を受けた。

 今思えば、ムシの知らせだったのか、先輩の亡くなったという午前五時、有三は、突然足が痙攣して目が覚めた。脹脛と足の裏が攣りどう伸ばしても揉んでも治まらなかった。そして、めまいと吐き気をもよおした。飲んで寝た訳でもなかった。胃酸が鼻をついた、指を喉に突っ込んでもなにも吐物は出ては来なかった。黄色い胃液が喉にこびり付いて痛みを感じた。

「死ぬのかな……」

 有三は、朦朧とする意識の中で考えていた。

「魂が身体から抜ける時にもこんなに苦しいんだろうか……」
と考えているうちに有三は気を失っていた。しばらくして目が覚めると彼は便座を抱えるようにしてトイレに倒れていた。

「あれは、偶然だったのだろうか……」

有三は、葬儀場の駐車場でハンドルを握りながら窓を叩く雨粒を眺めながら考えていた。


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