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作品名:体温 作者:

最終回   体温



 夜の十一時十八分、春埼(はるさき)麻美(あさみ)の住むアパートの近くにある小さな公園で、小学校高学年ほどに見られる少年がすすり泣いていた。公園にはその少年以外には誰も居なく、周りの道も人通りは全く無い。
 しばらくすると、公園沿いの道からコツコツと足音が聞こえてきた。女性は少年の姿に気づくと、公園の前で足を止めた。六月の夜風が草木の葉と共に女性の髪を撫でた。春埼麻美であった。
 麻美は公園に入って、少年が座っているベンチへと歩み寄った。そして語りかける。
「どうしたの…?」
「……」
少年は返事をしない。麻美はなお語りかける。
「こんな遅くになっても家に帰らないと、家の人心配するよ…?」
「……」
少年は顔を上げて、泣き腫れた目で黙ったまま麻美をじっと見つめる。麻美はその眼差しに、優しい微笑みで返した。少年は照れたような素振りで、地面の方へと目を逸らす。そして地面を見つめたまま、ゆっくりと弱々しい口調で話しだす。
「僕は…今あの家では見えてないんだよ」
「見えてない……?」
「僕があの家に居たって、お母さんやお父さんには僕が見えていない時があるんだ。今もそう……。だから僕の事心配なんかしてないよ」
 少年の断片的に話す内容に、麻美は頷く事で理解を示した。
「うん……。じゃあ、今日はこれからどうするの?」
「……しばらくしたら帰るよ」
「ここから家は近いの?」
「…十分くらい」
「家まで送ろうか?」
「いいよ。一人で帰れるよ」
少年はおせっかいだと言わんばかりに、少し乱暴な口調でそう返すと、ベンチから立ち上がった。そしてその場から走り去って行った。麻美は少年の後姿を心配そうに見つめていた。


少年が家の玄関を開けると、一階のリビングからは男女の言い争う声が聞こえてくる。少年は意識的に勢いをつけて扉を閉めた。ガチャンッと大きな音が家に響く。しかし、リビングの争いは少しの途切れ目も無く続いた。少年は少し悲しそうな顔を浮かべて、二階にある自分の部屋へと階段を駆け上がった。
部屋に入ると、少年は目覚まし時計を手にとって、朝の六時に時間をセットした。そして、電球を引き部屋の明かりを消して、ベットへ倒れる。
「うっ…うっ…」
すすり泣く少年の表情を、窓から差し込むわずかな月明かりが照らした。 


       2

六月の晴天が降り注ぐ。風は心地よい生温かさで静かに吹き抜ける。
世田谷区にある、とある私立大学。
麻美と原田(はらだ)美紀(みき)は大学の校舎の屋上にあるベンチで昼食をとっていた。麻美は一口ほど残ったサンドイッチを頬張り、緑茶で流し込んだ。そして、話し出す。
「うん……まあ、昨日の夜そういう事あったんだけど、どう思う?」
 美紀は残りわずかのプリンをプラスチック製のスプーンですくって口に入れた。そして答える。
「どう思うって…?」
「何で私はその男の子に声をかけたんだろうって思って。自分でもよく整理がついてなくて」
 美紀は何かを思い出すように、一瞬空を見上げて言った。
「なんかその話聞いてね、麻美が授業終わり、突然一人の私に『お昼一緒に食べませんか?』って言ってきたのを思い出したよ。例えば、それもそんなはっきりした理由は無いの?」
「う〜ん……なんかね、気になる存在だったの」
「独り……だったから?」
「え…?」
 麻美はどこか核心を突かれたような気がした。


そして昼食を終えると、麻美と美紀は校舎の階段を下っていった。美紀は言う。
「独りってすごく楽なもの。だけど寂しいもの。独りが好きな人って何度も会った事あるけど、本当の意味で独りでいる人なんて誰も居ないんじゃないかな…」
「うん…」
「いつしかね、私は独りで居れる事に妙にプライドのようなものを持ち始めてたの。私は絵を描けさえすればいい、人の繋がりなんていらない、私は独りでも大丈夫……」
 二人は一階に着いて、校舎の外へ出た。
 さらに続ける美紀。
「でも今は、麻美が居ないなんて……きっと耐えられない」
「そう…。嬉しいよ」
「うん、じゃあ私次の授業向こうの校舎だから。またね」
「うん、またね」
 校舎へと歩いて行く美紀。その後ろ姿を麻美は何かを思いながら見つめていた。


 大学の広場で友人の理(り)穂(ほ)と円(まどか)に合流する麻美。先程の美紀と居た時とはまるで別人のようなハイテンションである。三人はやたらと早口に授業の事や、今後予定している合コンの話題で盛り上がっている。傍から見ると、その様子は幾らか騒々しい。
 その様子を近くの校舎の二階にある教室の窓から、鋭い目つきでうかがう視線があった。
「……」
 美紀であった。


       3
 
台東区のある病院のカウンセリングルーム。麻美は去年の八月から月に一度か二度、この場所でカウンセリングを受けていた。
カウンセラーの津原(つはら)玲子(れいこ)と麻美が椅子に座って、机越しに面と向かっている。
麻美の話を聞く玲子。
「その美紀っていう子は、私にすごく依存してるのがわかるんです。たまに恐ろしくなるくらい……。でも彼女といる時間は悪い気分じゃないんです。むしろ、その子が私に執着すればするほど、私は自分自身の『存在』を実感してるような…」
「うん」
「で、後二人仲良くしてる友達が居るんです。理穂と円っていうんですけど。その二人とは普通の……、うん…私の思う普通の友達付き合いって感じです。ただ何となく三人一緒にいて、誰かが話題を出せば明るく盛り上げて、誰も話題を出さなければ私が出して……。もしかしたら、そこでの会話にそんなに意味なんて無いのかもしれないです。ただ、私の事を受け入れてくれる二人が嬉しくて。それがその二人と居る理由かもしれません」
「うん」
「でも、その二人と一緒に居ると、こんな事が頭を過ぎる時があるんです。ここに居るのは、私じゃなくて良いんじゃないかって。それなりに明るくて、それなりに二人の話題に着いて行けて、それなりに二人と話す事ができれば、私じゃなくても良いんじゃないかなって。何でこんな事考えちゃうんだろう……?」
 玲子は両手を指の間に挟ませて言った。
「あなたの求める答えかはわからないけど、いいかしら?」
「はい」
「春埼麻美っていう人間はこの世に一人しかいない。あなたの代わりなれる人なんて誰も居ないのよ。だから、自分じゃなくて良いんじゃないかって気持ちになって、自分を追い込んで欲しくないの」
「はい……」
麻美は瞳を少し潤ませて言った。
「先生って優しいですね…いつも。もちろん、それが仕事だっていうのは分かってるんですよ。先生はそれが仕事だから、私に優しくしてくれてるって……」
 応える言葉が見つからず黙って聞く玲子。
「でも、それでいいんです。私は先生に救われて、今を前向きに生きてるから。私先生に憧れてるんです。私も先生みたいに人に優しくしてあげたい、救ってあげたいって思うようになってきたんです。だって、振り返っても私そんな風に人に接した事あるかな?って思って。いつも自分の事で精一杯で、周りなんか見渡して無くて。でも今は自分の心に少し余裕があるから、それができるかなって……」
 玲子は微笑んで、返した。
「ありがとう。私はあなたに憧れられるような人間かは分からない。けど、あなたが少しでも前向きになってるなら、嬉しいよ」
 その言葉を聞いて、麻美は微笑んだ。
 腕時計をちらっと見る麻美。
「あっ、そろそろ時間ですよね」
「まだ話したい事は無い?」
「大丈夫です。今日はありがとうございました」
 深々とお辞儀をする麻美。
「お大事に」
 麻美は椅子から立ち上がり、扉から部屋から出ていく。玲子はその扉を見つめたまま、少し浮かない顔をしてはため息をついた。


 病院の外に出る麻美。見上げると空は夕暮れのオレンジに染まっていた。


       4

カフェでのアルバイトを終え、家路へと向かう麻美。夜風は昨日と同じ強さで吹いていたが、少し薄寒い。風が麻美の肌を通り抜ける度に、彼女の身は微かに震えた。
夜の十一時十六分、公園沿いの道まで来ると麻美は「今日も少年は居るのだろうか」とふと思う。
少年は昨日と同じように公園のベンチに座っていた。そして待ち侘びるような眼差しで、公園の入り口をじっと見つめていた。
草木の葉を鳴らすような強い風が吹いた。少年は半袖から伸びる腕を、両手で擦りながら一瞬俯いた。そしてふと見上げると、公園の前には少年の方を向いた麻美の姿があった。  
 麻美は少年が座るベンチへと歩み寄り、優しく語りかける。
「今日も来てたんだね」
「会えると……思って」
 少年は昨日の幾らか反抗的な態度とは打って変わって、素直な語り口だった。
「昨日と同じくらいの時間に居れば、また来てくれると思ったんだ」
「私に会いたかったの?」
 少年はゆっくりと頷いた。
「ね、じゃあ隣座っていいかな。立ちっぱなしだと疲れちゃって」
 麻美は少年の隣へと腰かけた。そして少年に言う。
「今日…なんだか寒いね」
 少年はその言葉に応えなかった。十五秒ほど、草木の葉が鳴る音だけの時間が過ぎた。少年はその時間に静かな口調で入り込んでいった。
「一年間……」
「え…?」
「あの学校に居た時間。四年生まで違う学校に居て、今の学校に転校して、ここで卒業かなって思ってたら、また違う学校に行かなきゃならなくて」
「どうして違う学校に行かなきゃならないの?」
「明日からお母さんとお父さんは離れて暮らす事になるから。お母さんは長野の方に実家があるから、そこに帰るんだ。だから学校もそっちの方へ転校する事になって……。でも良かったかも。僕、あの学校嫌いだから」
「何で…?」
「一人で本を読んだり、考え事してるのが好きなんだ。休み時間も放課後も。でも、そんな僕を見るとあの学校のやつらは、僕に聞こえるように陰口を言ってくるんだ。『暗い』だとか『あいつは仲間外れ』だとか。それは違うんだよ。僕は自分でしたくしてそう生きてるんだ。放っておいてくれればいいのに、あいつらは……」
「きっと…みんな自分の知らない生き方は、受け入れられないんだよ」
「お姉さんは…」
「え…?あ、私麻美って言うの」
「麻美さんは…僕の生き方を受け入れてくれる?」
「いいじゃない。自分を持ってて、すごく素敵だよ」
「ありがとう……」
 少年は麻美の体にうずくまっては、身を震わしながら泣きじゃくった。
「ありがとう…ありがとう…」
麻美は少年の体を抱きとめながら、頭を撫でた。
「……」
「温かい…」
 少年は麻美の腕を強く掴みながら、そう言った。
 麻美は少年を抱きとめたまま、眠りに落ちていった。


       5

無音の夢の中、夜の公園のベンチで十歳の頃の麻美がすすり泣いている。そこに二十代前半ほどの容姿の女性が歩み寄ってきた。女性は麻美の横に座って、頷きながら麻美の話を聞いている。そして、泣きじゃくる麻美の体を抱きとめては、頭を撫でていた。それはまるで今日の麻美と同じように……。
明け方、麻美は女性と一緒に自分の家の前まで歩いた。到着すると、女性は微笑みながら手を振っては麻美から離れていった。麻美は段々と遠ざかっては小さくなる女性の後姿を、見えなくなるまでずっと見つめていた。
 麻美はもう二度とその女性と会う事は無かった。


       6

 雲間から朝陽が注がれる。透き通った空気、小鳥の鳴き声。
 朝陽に照らされて、麻美はやがて目を覚ます。見上げると、ベンチの前には少年が立っていた。
「やっと起きた」
「あっ、あれ?私寝ちゃってたんだ…。今何時だろ?」
「まだ朝の五時だよ。僕そろそろ帰るよ。今なら親が寝てる間に帰れるから」
「そう。昨日の夜家に居ないの心配してないかな?」
「大丈夫だよ。毎晩毎晩喧嘩して、僕の事なんか忘れてるんだから。昨日の夜だってきっとそうだよ」
「うん。じゃあ、よかったら私家の前まで送るよ」
 少年は黙って頷いた。
 少年と麻美は十分程の時間をかけて、少年の家の前まで歩いて行った。麻美は少年の家が近づくにつれ、心なしか彼が歩くスピードを遅めているような気がした。
 家の前まで着く二人。
 麻美は言う。
「じゃあ、私行くね」
「うん……」
 少年は麻美と目を合わさずに俯いたまま、そう返事した。
「新しい場所でもがんばってね」
「うん……」
「じゃあね」
 そう言うと、麻美は微笑みながら手を振っては少年から離れていった。
「……」
少年は段々と遠ざかっては小さくなる麻美の後姿を、見えなくなるまでずっと見つめていた。


麻美は自分のアパートまで戻ると、朝から授業があるため、一通りの身支度を始めた。洗顔をして、シャワーを浴びて、歯磨きをして、化粧をして。


少年の家の駐車場。 
「ほら、乗って」
 母親がそう言うと、少年はワゴンの後部席へと乗り込んだ。
 母親はエンジンをかけて、車を出発させた。


 麻美は身支度を終えて、アパートから最寄りの白川(しらかわ)駅まで向かった。
 駅まで向かう途中の赤信号で麻美は止まる。その時、隣にある車道のワゴンから窓をトントンと叩く音が聞こえた。
「えっ…?」
 車の中には少年が居た。そして少年は後部席の窓を開いて、その隙間から言った。
「ありがとう!」
 信号が青へと変わり、車が発進する。
 二人は見えなくなるまで、お互いを見続けた。
 そしてこれが二人が会う最後の場面だった。


       7

 宮川探偵事務所の一室。玲子と探偵の宮川が机越しに面と向かっている。
机の上には二枚の写真が置かれている。一枚は、女性が婦人科の医院から出る時の様子。もう一枚は、その女性と男性が二人で幼児のおもちゃ売り場に居る時の様子。
 宮川は言う。
「状況から判断して、旦那様がこの女性と不倫をなさっているのは、間違い無いと思われます。また、この女性との間に子どもができている可能性も否定はできません」
「そうですか……」
 この席に凍てつくような沈黙が走った。
 

 探偵事務所の二階の窓から、帰っていく玲子を見下ろす助手の竹内。宮川に語りかける。
「大丈夫ですかね?あの奥さん」
「あの奥さん、旦那の浮気は前から知ってたんだよ。お前が入る前からここで依頼を受けてたから。でも結婚して六年が経っても子どもができなくて、結局他の女と子どもを作られたなんて耐えがたいものがあるだろ。だが、これ以上は俺達が踏み込む事じゃない。後はあの奥さん次第さ」
「そうですね…」


       8

 大学の昼休み。
 校内の廊下を歩く麻美を見かけた美紀が話しかける。
「麻美!」
「あっ、美紀」
「今日お昼一緒に食べようよ」
「ごめん。今日は違う人たちと食べる約束してて…」
「そう……わかった」
「本当ごめんね」 
その場から立ち去ろうとする麻美。少し歩いたところで美紀が更に話しかける。
「昨日の男の子の話」
「えっ……?」
「私よく考えてみたんだけど、あれって結局麻美の自己満足なんじゃないの?」
「……」
「男の子は独りで居て、自分を受け入れてくれるという確信を持った上で、近づいたんでしょう?隙があれば善意を見せつけて、『自分は何て高尚な人間なんだろう』って思い込みたいんじゃないの?」
「どうしたの…?」
「人にただ闇雲に優しくすればいいと思ってるの?その後の事は何も考えなくていいと思ってるの?そんなの私からすれば、大きな間違いよ」
「あっ、麻美〜!!」
 理穂と円が麻美を見かけて、遠くの方から呼びかける。
「それじゃあ」
 そう言うと美紀は立ち去って行った。
「……」
 呆然とする麻美。


 大学の広場にある木製のテーブルの上で、理穂と円と昼食をとる麻美。
円は言う。
「どうしたの、何かあった?何か今日テンション低い感じするけど」
「そうそう、それ私も思った〜」
「いや、何でもないよ。ごめん、ごめん!」
 勘付かれたのに焦り、無理矢理気丈に振る舞う麻美。しかし先程の美紀とのやりとりが、なかなか頭から離れられずにいた。

 
 大学内にある美術室。美紀は一人で椅子に座ってプリンを食べている。
「……」
 食べ終えると、美紀はプラスチック製のスプーンをプリンの容器の底に思いきり押し当てた。パキンッという音と共にスプーンの匙が折れる。
 美紀の前には、布が掛けられたキャンバスが置かれている。彼女はその布を取って、キャンバスを眺める。
「描かなきゃ……」


       9

 夜の十時三十二分、北千住にある津原玲子の家。玲子は夫の大祐(だいすけ)の帰りをリビングでひたすら待っていた。テーブルの上には、今日大祐に用意していた夕食がラップをして置かれていた。
 玄関を開ける音がした。大祐が帰ってきたようであった。
 リビングの方へと来る大祐に話かける玲子。そこに怒りは見せずに、極めて柔和に。
「遅くなるなら連絡してよ。夕食も用意しちゃったし。何度携帯にかけても出ないし」
「ああ、悪い」
 大祐は全く悪びれる様子も無く、無表情に玲子の横を通り過ぎていく。まるで視界に彼女の姿は見えて無いように。そして、自分の部屋へと入っていく。
「……」
 無言でごみ袋に夕食を捨てていく玲子。段々と空しさから涙がこみ上げてくる。
「うっ…うっ…」
 涙がごみ袋にポトポトと音をたてて落ちる。体を震わせながら、玲子は何かを決意したかのように鋭い目つきをした。


「お疲れ様でした」
 アルバイト先のカフェからあがる麻美。最寄りの北千住駅へと歩き出す。


 暗闇に光を差し込むように、大祐の寝室の扉がゆっくりと開く。
 脱ぎ捨てられたズボンから、玲子はスルスルと黒革のベルトを引き抜いてゆく。彼女はそれをゆっくりと大祐の首回りに掛けた。
「うっ!」
 玲子は両腕に血管が浮き出る程に力をこめて、大祐の首を思いきり絞めた。
「ぐっ…!ぐっ…!がっ…!」
 大祐は目をかっ開いて、体をバタバタさせてもがきながら、玲子の手を引き離そうとする。爪先が彼女の腕に食い込む。血が滴り落ちてゆく。しかし彼女の力は弱まる事無く、その力を増していった。
「がっ…………ごっ…………」
やがて大祐の手の力は弱まり、体の揺れも収まっていく。全身が力を失くして、腕がドサッとシーツの上に落ちる。
「はあ…はあ…はあ」
 玲子は息を荒げながら、ベルトを手から離す。そして、我に返った表情をすると
「ちょっと大丈夫?ねえ、ちょっと、ちょっと!!」
 そう言いながら、大祐の体を揺さぶった。しかし、彼はぴくりとも動く気配は無い。
 あらゆる感情が入り混じった激しい心臓の鼓動が、玲子の頭のてっぺんから足の先までを支配した。
「あなたが悪いのよ……あなたが悪いのよ!」
 玲子は大祐の方を見たまま、後ろ歩きで入ってきた扉の方まで行った。
 光が暗闇に奪われるように、大祐の寝室の扉が素早く閉まる。 

  
       
       10

 玲子は足早に家を出た。彼女はとにかくこの地を離れたかった。さっきまで自分が犯した出来事を、まるで夢の中での事のように思い込みたかった。その為には誰も自分を知らない、自分が訪れた事も無い場所に向かおうと思った。彼女は駅へ向った。


 北千住駅の東口まで来た麻美。大量の無断駐輪された自転車が立ち並ぶスロープ沿いから、見覚えのある人影が見えた。玲子であった。
「あっ、先生!」
 突然声をかけられて、ぎょっとする玲子。麻美に気づく。
「春埼さん……」
「こんなところで先生に会えるなんて。あの……もしかしたら具合悪いんですか?すごく顔色が悪いんですけど」
「そんな事無いよ。全然、そんな事無い」
 麻美とは全く目を合わさずに、そう返す玲子。そそくさと麻美の横を通り過ぎて、駅へ入ろうとする。麻美はそんな彼女の態度の異変に気づき、敢えて更に問い掛けた。
「先生って家この辺りって言ってましたよね?今から電車って…どこか行かれるんですか?」
「ええ……まあ」
 はぐらかす様な口調で言う玲子。
 麻美は言う。
「ごめんなさい。何か立ち入って聞くような真似しちゃって。だけど、今日の先生何かいつもと違うから…。あの……私で良かったら何でも話聞きますよ。っていうか…先生と一緒に居たいだけですけど」
「私と一緒に居たい…?どうして…?」
「どうしてって…先生は優しいし、私の話何でも聞いてくれるし、それに……」
「それに…?」
「ごめんなさい……本当はこれが一番の理由なんですけど、言えないです…。だって先生に迷惑がられるの…すごい怖いから」
「そう…。言いたく無い事は言わなくていいんだよ」
 玲子は優しくそう返した。そして続ける。
「近くに公園があるの。少しだけ話聞いてくれないかな」
「はい」


 千住公園。花壇や芝生、森林が立ち並ぶ大きな公園だった。芝生の近くのベンチではカップルが寄り添っていた。白い石造りの噴水で、水面が音を鳴らしながら波紋を広げてゆく。二人はその噴水の傍のベンチに腰かけた。
 玲子は話し出す。
「この前のカウンセリングの時も今日も、あなたが私の事憧れてるとか、優しいとか言うのを聞くとすごく胸が苦しくなるの」
「えっ……?」
「一緒に居たいって言われるとね、苦しくなるの……」
「……」
「だって……だって私そんな人間なんかじゃない……」
 玲子は唇を震わせながら、泣き出すのを堪えるようにしゃべり続けた。
「もしそうなら…私たくさんの人に愛されてるはずだもの……優しくされてるはずだもの……でもそうじゃなかったから……彼の事大切に……思ってしまったのかも……」
「先生……」
 麻美は玲子の手の上に自分の手を添えた。
「ずっと……ずっとひとりだった……でも彼は私の事愛してくれて……だから何度私の事裏切っても……何度でも許して……」
 玲子は更に感情を昂ぶらせながらしゃべり続ける。麻美は添えた手をより強く握るようにした。
「でも、もう許せなかった!許せるわけないじゃない……私が子どもが出来ない体なのがわかって……他の女と子どもを作って……日ごとに冷たくなって……」
「……」
「私頭の中であの女の子どもを抱く彼の姿を想像しちゃったの……そして隣で微笑んでるあの女の姿も……きっと私には見せた事の無い幸せそうな顔をするんだろうなって……私にはずっと見る事ができない顔……あの女とその子どもだけが見る事ができる顔……」
「……」
「そしたらどんどん頭に血が昇ってきて……彼が絶対そんな幸せそうな顔をできないようにしてやろうって思って……思って……」
 玲子は抑えつけていた感情を放すように、わんわんと泣き始めた。麻美はそんな彼女を抱きとめては頭を撫でた。


       11       

「先生の気持ち静まるまで、こうしてていいですか…?」
「うん……」
 玲子は泣き疲れた少女のような声でそう返した。
 麻美はそっと目を閉じて先程の玲子とのやりとりを思い返した。そして、まるでデータを上書きするように、本当に玲子に伝えたかった言葉を想像した。

 
「私と一緒に居たい…?どうして…?」
「どうしてって…先生は優しいし、私の話何でも聞いてくれるし、それに……」
「それに…?」
「先生と居ると、お母さんと一緒にいるみたいな気持ちになれるから」


 瞼を開く麻美。
 玲子は少し気持ちを静めたように呼吸を落ち着かせて、麻美に語りかけた。
「温かいな…」
「私も温かいです…。先生だってすごい温かいですよ」
「違うよ。それはあなたの体温が私に伝ってるだけ」
「先生のが私に伝ってるんですよ。いや、もうどっちでもいいですね」
「ふふっ…」
 二人は小さく笑い合った。玲子は先程までに感じていた戦慄を、このほんの一時忘れる事ができた。


       12       

 麻美は玲子をこの地域の警察署の前まで見送ることにした。
向かうまでの二人に会話は無かった。
玲子は麻美に夫の首を絞めた事は一言も言わなかった。「警察署の前まで一緒に来て欲しい」と言っただけだ。麻美が優しく寄り添ってくれればくれる程、自分のした残虐な行為を口にするのは躊躇われた。
麻美は心の片隅で、玲子が夫の生死に関わるような罪を犯してしまった事には気づいていた。けれどその事には一切触れる事はしなかった。 
二十分弱の徒歩の末、二人は警察署の前まで到着した。
「春埼さん…ごめんね。こんな所まで付き合わせて」
「先生……」
「結局人間って最後まで独りは嫌なのかもしれない」
麻美はその「最後」という言葉に心が揺れるのを感じた。
「これで最後なんかじゃないですよね?私また先生に会えるんですよね?」
「あなたはもう私とは関わらない方が……」
 玲子の言葉を遮るように麻美が声を荒げる。
「いやだ!先生と会えなくなるなんていや!私待ってるから…先生とまた会える日まで」
「春埼さん……」
 二人は無言で見つめ合った。そしてお互いがお互いの瞳の奥に在る感情を探り合った。麻美はただ玲子の言葉を待った。
「ありがとう……」
 玲子はそう言うと、警察署の方へと振り向いて歩いて行った。麻美はただ立ち尽くして玲子の背中を見つめていた。そして自分との距離が遠ざかって行くほど、瞼に熱く込み上げるものを感じた。それはやがて涙に変わって、麻美の頬を撫でるように伝った。滴が乾いた地面へと落ちた時、玲子は警察署の扉の奥へと消えて行った。


       
       13


空の闇に浮かぶ弓張り月に、薄い膜のように雲がかかっていた。雲はゆっくりと動きながら、月の光を少しずつ奪っていた。
 
その夜、円と理穂は都内のイタリアンレストランで食事をしていた。二人はよく雑誌で目当ての店を見つけて、一緒に出かけたりした。今日もそんな日だった。
 しゃべり好きな二人は食事を終えても、長々と居座っていた。時刻は夜の十時を回った。もう店も閉まる事だし切りが良いからと、二人は店を出た。
 店から最寄りの住吉駅までは二十分ほどの道のりだった。
 二人は人気も無く、車もほとんど通らない暗がりの路地を通り抜けて行く。七分ほど歩くと、その路地の沿いに小さな公園が佇んでいた。そこを見て円は言う。
「ごめん、ちょっとトイレ行って来ていいかな?」
「え〜我慢してよ。この辺なんか気味悪いだもん。早く行こ」 
「この辺、駅まで何も無かったからさ。ごめん、ごめんすぐ行って来ちゃうよ」
「もう…早くね」
 理穂が渋々了解すると、円は小走りで公園のトイレへと向かって行った。
 理穂は公園内の空へと高く伸びた灯の近くへと歩み寄った。彼女の後ろには分厚い林があった。夜の林はその美しい緑を失くし、何か得体の知れないものを潜めた漆黒の塊のように見えた。
 その時
「…!」
 ガサッと林から擦れるような音が聞こえた。驚き、林を凝視する理穂。しかし、そこはまた音一つ無い静寂へと戻った。「猫か何かだろう」彼女はそう自分に言い聞かせた。
 再び林から背を向ける理穂。
 次の瞬間
「きゃあ!!」
 漆黒の塊を叩き割るように、黒いフード付きのパーカーを羽織った人物が飛び出してきた。顔はサングラスとマスクをしているために確認できない。その人物は左手に掴んだスパナを勢いをつけて理穂の頭上へ振り下ろした。ゴッと鈍い音が響く。彼女は一瞬でその場に倒れた。
 叫びが聞こえた円は急いでトイレから飛び出してきた。その数メートル先には、うつ伏せに倒れた理穂の姿があった。
「理穂!」
 急いで理穂のもとへ駆け寄る円。
 円の背後には黒い影がゆっくりと忍び寄っていた。

 空の闇に浮かぶ雲はやがて完全に月を覆い尽くし、光を奪った。


      14      
 麻美は自分のアパートまで戻ると、ベットへ倒れた。夜遅くまで起きていた事での疲れでもあったが、玲子の事を思い苦悩する前に寝てしまおうという考えでもあった。
麻美はその夜夢を見た。


 夢の中、そこは当時麻美が母親と暮らしていた家。
部屋の中で大量のカプセルが散らばったテーブルの上を母親の上半身が横たわっている。
「いや…いや…」
 麻美は目を逸らすようにして、近くのドアからその部屋を出た。すると、そこは先程の警察署の前であった。目の前には微笑んだ玲子が立っている。麻美は言う。
「先生!先生は私のお母さんの代わりになってくれるよね?」
 玲子は応えず、振り向いて警察署へと歩いて行った。
「どうして!?どうして行っちゃうの!?私の事独りにしないでよ!!」
 麻美の叫びは届く事無く、玲子は警察署の扉の奥へと消えて行った。
「どうして麻美は人に優しくするの…?」
「!?」
 麻美の背後から、突然幼い少女の声が聞こえてきた。驚き振り向くと、そこに居たのは十歳の頃の麻美だった。幼い麻美はさらに続ける。
「そこにどんな答えがあるの…?」
「答え…?そんなのわかんないよ…。ただ、もう寂しいのはいやだよ…」
「ねえ」
「!?」
 また背後から女性の声が聞こえた。振り向くと、そこに居たのは美紀だった。彼女は言う。
「人にただ闇雲に優しくすればいいと思ってるの?その後の事は何も考えなくていいと思ってるの?そんなの私からすれば、大きな間違いよ」
「美紀……。じゃあ、どうしたらいいって言うの?私はどうしたらいいのよ?」
 辺りの景色が霧がかかったように霞んできた。麻美は夢が閉じていくのがわかった。


      
      15

 心に後味の悪い感触を残したまま麻美は目覚めた。
そして身支度をして大学へ向かった。


大学に着き、授業がある教室に到着するとやけにクラスメイトたちが騒々しい事に麻美は気づいた。
クラスメイトの一人である由(ゆ)貴(き)が麻美に近づいてきた。
「ちょっと麻美!!朝のニュース見た!?」
「え?見てないけど」
「理穂と円が凶器で殴られたんだって!!」
「え!?」
「通報で病院に運ばれて命に別状は無いって言ってたけど。麻美あの子たちと仲良かったじゃない?何か心当たりとか無いの?」
「心当たりなんて……」
 気がつくと教壇には教授が立っていた。
「ほら、静粛にしなさい!授業始めますよ!」
 厳しい男性の教授という事もあり、クラスメイトたちはすぐさま着席して静かになった。
「……」
 麻美はクラスメイトたちが彼女から遠ざかって席に座っているのがわかった。彼女は左側の後ろの方の席に座っていたが、彼らは皆前の方の席に意識的に座っていた。
その内に小さな話し声が麻美の耳に入ってくる。
「もしかしたらあいつがやったのかもね。あの二人とよく居たしさ」
「しっ、聞こえるって」
 麻美はクラスメイトたちが自分に疑いを持っているのがすぐにわかった。
 麻美は出していた教科書やノートをバッグにしまって、教室を出た。


校舎を出る麻美。
麻美はさっきの教室に美紀の姿が無い事に気づいた。
美紀の携帯にかけてみるが、
「……」
 彼女は出なかった。


       
      16

 その頃大学内にある美術室で、美紀はキャンバスに筆を滑らせていた。
 その時「トントン」と部屋のドアを叩く音がした。
「……」
 美紀は返事をしなかった。
 ドアノブが回された。しかし、鍵がかけられていて開かない。
 再び「トントン」とドアが叩かれる。
「美紀居るんでしょう?どうしても話したい事があるの。お願い開けて」
 麻美の声だった。
 美紀の筆先は止まった。そしてゆっくりと椅子から立ち上がり、ドアの傍まで歩み寄った。
「ごめん、麻美。今絵を描いてて、後少しで描き上がるの。それまではもう筆を止めたくなくて」
「じゃあ、私ここで待ってるよ。美紀が描き終わるまで」
「そう……」
 麻美はドアの横の地べたに座り込んで、美紀を待つことにした。
 美紀は物憂げな表情で椅子まで戻ると、また筆をとった。


       
       17

 二時間と三十七分が経過した。その間、麻美は様々な思いが頭を巡っていた。
 その時、ガチャという音ともに美術室のドアが開いた。
 そして美紀が出てきた。
「ごめんね、待たせて。どこで話す?」
「美紀が居た部屋でいいかな?」
「うん」
 二人は美術室の中へと入った。
「どんな絵描いたの?」
 麻美は壁の方に裏側で置かれたキャンバスを見て言った。
「……話って何なの?」
 美紀はその言葉には答えずに、そう返した。
「今朝のニュース見た?私と仲良くしてた友だちが凶器で殴られたらしいの」
「…何でそんな事私に言うの?」
「え…?」
「何でそんな事私に言うのよ!!」
 美紀は部屋中に響き渡るような声で怒鳴りあげた。
「ごめん……。昨日言ってたよね。『人にただ闇雲に優しくすればいいと思ってるの』かって。『そんなの間違い』だって。きっと美紀にはそんな風に私が映ってたのかな……」
「……」
「そんな私だから…美紀を傷つけてしまったのかな……」
 麻美は段々と声を震わせながら、こみあげるように涙を流し始めた。
 その麻美を見て、美紀は言う。
「泣かないでよ。麻美は何にも悪く無いよ。悪いのは全部私だよ…」
「……」
「怖かったの……。他の人と仲良くしてると、私が見えてないんじゃないかって……」
「どうして……そんな酷い事……」
「麻美にはきっと分からないよ。私の寂しさはきっと……。けど、麻美と居る時だけが寂しさを癒せるの」
「……」
「絵を描いてる時間より、どんな時間より……。だから麻美を私だけのものにするの」
 美紀はそう言うと、白い布が掛けられたテーブルの下から包丁を取り出した。
「いや……やめて」
 後ずさる麻美を美紀は忍び寄りながら追い詰めていく。
 その時
「うっ!」
 美紀はその包丁を自分の腹部へと勢いよく刺した。
「あっ……うっ……」
 美紀は激痛に悶えながら、床へと仰向けに倒れた。
「美紀!!」
 麻美は美紀のところへ駆け寄って、しゃがんだ。足元に腹部から大量の血が流れ込んでくる。
「何でこんな事……。すぐ救急車呼ぶからね!!」
 そう言ってカバンから携帯を取り出す麻美。その腕を血まみれの手で掴む美紀。
「そんな事……しないで……私を見てて。ちゃんと……私を見てて……」
 苦しみから呼吸を荒げながら、麻美にそう訴えかける美紀。
 そして美紀は麻美の手に指を絡ませて、微笑みながら言った。
「麻美って温かいんだね……。ずっと触れてたい……な…………」
「美紀…?美紀…!?美紀!!」
 美紀はどこか安らかな表情で目を閉じた。


       
       18

 美紀は麻美の連絡により、救急車で病院に搬送され緊急に処置を受けた。大事には至らなかったが、その夜中彼女は目を覚まさなかった。麻美は病室で朝まで美紀の手を握り締めて、目が覚めるのを待っていた。


 病室の窓辺から朝陽が差し込む。小鳥たちが鳴き声と共に朝の始まりを告げる。
 朝陽に照らされて美紀はゆっくりと瞼を開いた。
「美紀……よかった」
 麻美は美紀の手をより強く握り締めた。
 美紀は呆然と天井を眺めながら言った。
「ここ病院…?私生きてたんだ……」
「そうだよ。助かったんだよ」
 麻美は微笑みながら言った。
「家族の人呼ぼうと思ったんだけど、持ち物から連絡先分かるものが無くて」
「……家族は福岡のおばあちゃんだけなの。でも足が悪いから来れないと思う」
「だけって…?」
「私が三歳の時、両親と乗ってた車にトラックが衝突してきたの。それで私だけが生き残って……。おじいちゃんも高校を卒業する頃に老衰で」
「そうだったんだ……」
「私殴ってしまったあの二人に謝りたい……」
「……」
「それに罪を償わなきゃ……」
「……」
「麻美はもう私みたいなやつに会いたく無いよね…?また会いたいなんて思っちゃだめだよね…?」
「ううん……。私待ってるから……」
「ありがとう……」
 美紀は嗚咽を漏らしながら、麻美の体にうずくまった。

 
 美術室にある美紀が描いた絵画が、カーテンの隙間から漏れる光に照らされていた。
 それは、二人の子どもが晴天の空の下、一面に広がる草原を、仲良く手を繋いで歩いている絵だった。


その次の日、美紀が警察に自首した事が朝の報道でなされた。


      
      19

 二日後の土曜の朝。麻美は朝のゴミ出しを済ますと、一階の階段の傍にあるポストを確認した。
 数枚の広告に混じって、茶色の封筒が入っていた。


 麻美は封筒を持って、少年と出会った小さな公園のベンチへ向かって腰かけた。空は青く澄み渡って、心地よい風が吹いていた。
 封筒を開ける麻美。中には真っ白で罫線が引かれた便箋が二通入っていた。
 それは玲子からの手紙だった。
「春埼さん元気でお過ごしでしょうか?今は留置場からこの手紙を書いています。
 春埼さんには包み隠さずに、事実を知ってもらいたい。そんな思いからこの手紙を書く事にしました。私は近い内に殺人未遂の罪状で起訴を受ける事になります。つまり私は夫を殺そうとしたのです。
 以前カウンセリングの時に『あなたの代わりになれる人なんて誰も居ない』という話をしたのを覚えていますか。あれは一人のカウンセラーとしては踏み込み過ぎた意見だと反省をしています。けれど、一人の人間としては今でも間違った意見だとは思っていません。そして、それはどこか自分に言い聞かせていたような気もします。そういった気持ちを侵された時、人は人を許せない気持ちになってしまうのかもしれません」
「……」
 真剣な面持ちで手紙を読む麻美。二枚目の便箋へと読み進める。
「もう一つ話しておきたい事があります。あなたにとって迷惑な話かもしれませんが…。
 なぜ春埼さんに、そんな踏み込んだ事を言ってしまったのかと考えたのです。それはきっと子どもが欲しいという自分の願望を投影してしまった結果…つまりどこかであなたの事を自分の娘のように思っていたのでしょう。ごめんなさい、こんな話をされても困りますよね。


 最後に、私の事を待ってるって言ってくれましたね。本当に嬉しかったです。私もまたあなたに会いたい。できたら今度はカウンセラーと患者の関係では無く、一人の人間同士として。

                         津原 玲子」

 
麻美は澄み渡る空を眺めた。待ち侘びるような表情で。


     
     20


 長野のとある場所にある一面に広がる草原。
 晴天の空の下、草花に隠れるようにひっそりと、十歳ほどに見える少女がすすり泣いていた。
 しばらくすると、草を踏み歩く音が聞こえてきた。風が隠れた少女を見つけ出すように草花を揺らした。少年は少女の姿に気づくと、足を止めた。少年は少女の近くへと歩み寄った。そして語りかける。
「どうしたの…?」

                             完


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