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作品名:癌再発記 作者:じゅんしろう

第9回   9
通っている銭湯でも思いがけないことが起きた。今では住まいに風呂を持ち、銭湯に通う人は激減している。したがって閑散としていることが多い。今日も他の入浴客は眼鏡をかけた年配者一人だけだった。何度も見かけていた人である。洗い場は三列に並んでおり、どういう訳か人それぞれ自分の定位置というものがある。私は中央の最前線で、その人は右側の端を定位置としていた。繁盛していれば気にもかけない人であろう。私が垢を擦っている時、湯船に浸かっているその人が、急にがばっというように湯船から飛び出した。何事かと思ったら、「背中を擦ってあげましょう」といったのだ。 
「あ、いや……」と戸惑っていると、「遠慮しないで」といい、私の背中に廻った。 
「では済みません」と答え、垢すりを渡した。年配の男はせっせと擦りだした。何故急にと思いながら、擦ってもらうあいだに考えた。じつはこの銭湯では、私より十歳近く年上の人と背中を擦り合う人がいたのだ。その人とも、私が身体を擦っていると、「擦りましょう」といってくれたのである。その人は体格がよく朴とつな物いいであるが、年輪からくる人の好さを感じた。近頃、赤の他人が銭湯で背中を擦り合う光景は珍しい。ましてや老齢ともいえる男同士である。そのやり取りを見ていたのであろう、私もその輪に加わりたいと思ったようだ。擦りながら、互いに差し障りの無い身の上話をしたりした。近頃は、銭湯で赤の他人同士がそのような行為は稀な光景といえる。ましてやお互い老齢であり、身近で同じ歳ごろが亡くなっていく境遇だ。さらには聞けば、お互いそれぞれ何らかの病を抱えている身のうえである。いつ何時どうなるかは分からない。その穴を埋めるように、親しい人を求めているのであろうか。その後、銭湯で会うたび、互いの背中を擦り合う仲になった。たとえ短い間だとしても、それはそれで好いと思う。
通院日になった。沖田医師に現在の症状をいうと、それぞれの処方薬を手配してくれた。
「ではこれで、様子をみていきましょう」と、あっさりといった。
また次回は三週間後である。帰り道、この様な生活がいつまで続くのか、と思った。
「これも定めか……」と、やるせない思いについ自虐的に呟いてしまった。
夜、不味い酒を嘗めていたら、今日は病院の生き返りだけだったな、と気がついた。あらためて考えると、随分と行動範囲が狭くなっていた。病院、八百屋、スーパーマーケット、そして銭湯の行きかえりだけになっている。半径五百メートル以内という処だろう。散歩はきつく、出来る状況ではなかった。この狭い中で、死を迎えなければならないのかと思うと、やるせない気持ちになり溜息が出た。その夜は、何となくぼんやりと過ごした。
数日後、八百屋のレジは小柄な女性が係りであったが、私の顔を見るなり、「痩せたね」といった。その言葉にはっとした。胃が少量の食べ物しか受け付けなくなっていたので、予想できる言葉であったが、顔が痩せたということに、少なからず動揺をした。家に帰り、あらためて鏡を見ると、確かに頬がこけていた。病気で頬がこけるものではあるが、だんだん酷くなると、げっそりというように痩せる。スーパーマーケットの常連客の老人を時おり見かけることがあった。ある時、急に頬や手足が痩せていた。明らかに何らかの病気に掛かっているのが分かった。その後も、何度か見かけていたが、いつの間にかその人の姿を二度と見ることがなかった。私もその段階に入り始めたのであろうかと思った。
酷い副作用はなかったが、常にという位、腹痛や張りを生じることが多くなった。やはり前回とは違い、抗癌剤がきかなくなってきた可能性がある。今年は持つであろうが、来年はどうなるか分からないとの予感がした。死ぬにはまだ歳に不足はあるが、致し方がない。もし医師が点滴の抗癌剤治療再会を提案してきたら、拒否しようと決めていた。あの苦しみは二度と御免だ、という思いが強いのだ。覚悟を決めなければならないが、何かをしたい、あるいは残したい、という気持ちがまた生じてきた。その模索と葛藤する日々が続いた。


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