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作品名:癌再発記 作者:じゅんしろう

第8回   8
だが少しずつではあるが、さらに身体に変調が起きていた。食事もわずかな量にもかかわらず、すぐ腹が張った状態になり、それ以上受けつけない。そのたびに軽い胃痛を伴った。排便も黒く、明らかに前回とは違う。前回のような奇跡は起こらないような予感めいたものを感じた。酒井医師の場合は余命宣告を受けたが、沖田医師からは告げられてはいない。死期を知っていて、あえていわないのであろうかと、疑心暗鬼が生じた。
― いよいよ覚悟をしなければならないようだ。先人の人たちは死期を悟ったとき、どのような心境だったのであろう。 私は項垂れ、一晩中その思いに耽った。
次の日、私は何事もなかったように買い物に行く。スーパーマーケットのレジに住吉さんがいたので、いつものように冗談をいった。
「いよいよ余命も千日ぐらいになりました。今生の別れです」というと、住吉さんはその言葉を払う仕草をして、「大丈夫、また会えますよ」といいながら、釣銭を両手で包み私の手を握ってくれた。柔らかい手であった。私としては半分本気の言葉であったが、心が温かくなり和んだ。 「では、今日の今生の別れということで」といい直すと、「はい、またお待ちしております」と、軽く躱され優しく微笑んでくれた。
だが、身体の変調は続いた。食事の際、腹や下腹部が張り鈍痛が伴った。その都度、胃薬を飲むことが多くなった。再度、明らかに前回とは違うと思った。いよいよ、覚悟しなければならないようだ、との思いが強くなっていった。しかし、死ぬ前に何かをしなければならないとの思いもあるが、気力が萎えてきた。憂鬱な日々が過ぎていくだけだった。
ある夜、日本酒を飲んだが全然美味くなかった。はてな、と思い芋焼酎に変えてみたが、やはり不味い。さらに、ワインを飲んでみた。結果は同じだった。以前、副作用で味覚障害になったが、今のところそれはない。どうも、酒の味覚障害に陥ったようだ。私は煙草を吸わない。唯一の楽しみは酒を飲むことだ。無論、癌を再発してから酒量は少なく嗜む程度といえる。それさえも癌は私から奪おうとしているのだ。少し癪にさわったので、癌に抵抗を試みることにした。
次の日の夜、甘い酒を買おうとスーパーマーケットに行った。梅酒と、いつも買う銘柄と違う小さめの日本酒パックを買った。これは、酒類が違えば旨味が戻るかも知れないという思惑からであり、いわば試飲用といえる。レジに野口さんがいたのでその列に並んだ。また以前に近い髪型に変わっていた。女心は変化が多い、理由はあえて聞かなかった。
「近頃、酒の味がしなくなってね、今度は甘い酒で試してみようかと思ってね」
「へえー、そうなのですか。お身体の具合が悪いのですか?」
「うん、余命千日ぐらいになったから、大変なのだよ」というと、「前は一万日を切ったとおっしゃっていませんでしたか?」といって笑った。新手の冗談と思ったらしい。そして、梅酒をかごから取り出した後、酒パックをじっと見た。これは何、という仕草であったので、私は慌てて、「料理酒に使う為」と言い訳をいう破目になった。まるで、可愛い孫にからかわれているような錯覚を覚えた。心が和み、互いに笑みを交わしてその場を去った。じつは野口さんとは相当親しくなっていた。以前会話のやり取りで、私自身は何をいったか忘れてしまったが、野口さんは何かを感じたようで、近くの台で買い物を詰め込んでいたら視線を感じた。顔を上げると、野口さんが私を見ていたのだ。眼が合うとにっこりと微笑んだ。さらに、帰り際も気になったので見ると野口さんも私を見ていて、微笑み頭を下げた。何気ないやり取りで特別なことをいった訳ではなかったが、私に特別な親しみを覚えたようだった。私も娘や孫娘がいる分けではないが、そのような気持を味わった。やはり、残り少ない命であっても、人と係わらなければ人間は生きていけないものだとあらためて感じた。特に若い娘さんなら尚更である。


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