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作品名:癌再発記 作者:じゅんしろう

最終回   10
ある日、銭湯に行くと脱衣場に張り紙が張ってあった。ボイラーの老朽化と先般の事情により、九月末をもって廃業するという案内であった。入浴客が少ないから経営は楽ではないだろうということは分かっていたが、仲良くなった二人との別れを意味していた。お互いに姓名は名乗り合ってはいない。人生をそれなりに生きてきた者同士である、淡い付き合いではあるが、それで良いと思っていた。ただ、心の中で溜息をつくだけである。
次の通院日の当日、沖田医師は採血表を見ながら、「次回MRI検査をしましょう」といった。通常の検査かと思うが、何か意味があってそういうのかなどと、疑心暗鬼が生じるものである。やや不安な思いを抱きながら日々を過ごした。
当日、MRI検査は最悪なものであった。癌が増殖し、腹に水分が溜まっていたのである。つまり、今の抗癌剤の効き目がなくなっていることなのだ。
「残念です。今後は別の抗癌剤にきりかえましょう」と沖田医師は私の目を見ていった。私はいつにない力強い言葉に黙って頭を下げた。
 新規の治療の関係で新しい抗癌剤治療の期間がずれ、長くなった。一度、ポートフラッシュという汚れ洗浄をするだけの為、病院にいった。そこの室は採血室と隣り合わせにある。係りの人は北林さんという四十代くらいの女性看護師で、白衣が良く似合うすらりとした背丈の美人であった。囁くような話し方をする魅力ある声の持ち主でもあった。洗浄剤を入れる針を刺すとき、実に真剣な眼差しをしていた。私は内心、力強い眼をしているなあ、と関心をした位だった。終わった後、「力のある眼をしていますね」というと、「いえ、だんだん目も衰えてきましたから、針を刺すとき集中して、ついそうなるのです」と、あくまでも控えめなものいいである。
帰り道、その女性の真剣な眼が頭に焼き付き離れなかった。 「今の自分の目は知らず知らずに無気力な目をしているのだろうな」と、ひとつ溜息をつき、何とかしなければならないと思いつつも、じくじたる思いに駆られ背を丸めるようにして歩いていった。
 次の通院日、化学療法室で新しい抗癌剤治療をおこなった。今度は点滴治療がメーインである。当然、数々の副作用が伴う。最大の副作用は髪が抜け落ちることだ。私はそれに対して異議を唱えた。長くない最期を覚悟して駄々を捏ねたといってよい。あるいは無意識に北林さんの力ある眼の影響があったのかもしれない。
「何とか、髪が抜け落ちるのを防ぐ手立てがないものか」
すると、小森さんが実戦的な手立てをいってくれた。
「論理的に、抗癌剤点滴の時に、頭を冷やせば頭皮が収縮し、脱毛を防ぐことができるといった。実際、先輩の看護師が、それを実行し髪が抜けなかったといった。私はその言葉に飛びつき、お願いした。
早速、頭部の裏と上部に冷房剤を当てがつて実地してもらった。この抗癌剤は眠気を誘う。うとうとしていると、「和賀さん―」と、上から呼びかけられた。ボーイッシュな髪形で、マスクを掛けていたがくっきりとした二重瞼が印象的な、色白の綺麗な妙齢の女性が私を覗き込んでいた。伊佐吉という薬剤師と自己紹介された。変わった苗字だと思いつつ、薬の効用を熱真に説明する声に聞き入ってしまった。どん底の私に救いの手を伸べようという女神にさえ思えたほどだ。いや、看護師を初め医療に携わっている女性は女神の資質を備わっているのかもしれない。私はそう感じつつ、ゆりかごに揺られているかの如く彼女の心地よい声の響きに黙って聞き入った。
次の日から、私に出来る何かを探す日々を送った。使命のようにさえ思っていたのだ。
そのようなときに、転機ともいえる出来事があった。その日はいつもより体調が良かったので、散歩を試みた。また、人混みの中を歩いてみたくなり観光地である運河方面に足を向けた。だが、気持ちはあっても身体がついてこず、止めようかと迷い出したときだった。メルヘン広場のオルゴール堂といわれる建物の前で人々がたむろしているのが見える。散歩を続けるには、これが限界だと踵を返すと、前方から白衣に杖というサングラスを掛けた年配の男性マッサージ師が向かって来ていた。杖を巧みに操り、私に近づいてきた。その様子を見て、これまで懸命に生きてきたのだと感じるものがあった。無論、どのような状況で闇の世界に生きることになったか知る由もない。私と擦れ違った際、何か心に響き、閃くものがあった。私は憑かれたように急遽、足を速めて家に帰った。直ぐにインターネットで、アイバンクのことを調べた。その結果、角膜移植には年齢制限もなければ、近視、老眼であっても問題ないことが分かった。私は献体登録をしている。これまで抗癌剤が蓄積されている身体では、臓器提供は無理ではないかと考えていた。それに、それをしてしまえば献体の意味をなさないと思い込んでもいた。だが角膜移植ならば問題はない。誰かが私の角膜を通して光を取り戻すことができれば、人の役に立てることができる。いいかえれば私の死後、私の代わりに何処かの街並みや緑豊かな山々や碧い海、高く青い大きな空を見続けることになるのだ。その人は美しい山河の光景を愛でることができる。こんな嬉しいことはないと思った。その時が迫ってきたら、登録することに決めた。そう決心すると、なんだか肩の荷が下りたような気になった。救われたような思いでもあった。同時に何かが吹っ切れ一日中、安寧の時を過ごすことができた。その夜、酒を少し飲んだが気分が良いせいか、酒の味覚障害のようなものも感じず久しぶりに美味い酒を味わった。
翌日も心の安泰は続いた。私の決心は揺るぎないものであると確信することができた。
これからは命続く限り身近で親しくなった人々と、できる限り親しく接し生きていこうと思った。
― 半径五百メートルの幸せか。 私は母の形見として唯一残した三面鏡に映った痩せた頬と眼を見ながら、これからは眼に良いというブルーベリーなどを心掛けて食べよう、と自分に笑いかけた。


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