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作品名:縁台の助五郎 作者:じゅんしろう

最終回   5
弘化四年七月四日夜。須賀山村仲内の通称びゃく(土地言葉で山崩れの意味)橋で、堺屋与助、石渡孫治郎、成田ノ甚蔵(助五郎の子分であるが、横柴村に縄張りを持つひとかどの親分でもある)によって繁蔵は闇討ちに逢い殺された。普段は二、三人の子分がついて歩く。その日は、笹川の賭場にいたが日が暮れると、さほど遠くない仲内に住む妾お豊のところに向かったのである。その為、子分は連れて行かなかった。妾といっても繁蔵に本妻はいないので、事実上の本妻である。繁蔵との間にまだ幼い女の子がいた。名前は分からないが、安政元年十二月、十一歳で死んでいる。途中、繁蔵は兄喜三郎の家に立ち寄っている。そこからわずかに六、七町に、お豊がいた。その道の左一帯は笹藪、右は栗畑で人家は無かった。橋の半町手前に大きな榎が一本あって、小さな祠があった。その辺りで襲われ殺されたのである。享年三十八歳。
翌日、野良仕事に出た百姓が、祠が血飛沫を浴び周辺が乱れているのを発見し、大騒ぎになった。繁蔵の姿が見えないので、勢力富五郎らの子分が血眼になって探したが、見つからなかった。助五郎の手に掛かったのは、はっきりしているがどうにもならない。その二、三日後、銚子の漁師の網に筵かますの包に入った首の無い裸の男の死骸が掛かった。銚子の陣屋で調べたが身元が分からず、ついに銚子の観音寺境内へお取棄てとなった。かますに刻印があった。笹川の岩井常右衛門という者の家の品だったが、その時は分からず、事実が明らかになるのは後々のことである。
首は助五郎が見分し、光台寺に戒名も付けず葬ったが、土饅頭に小石を置いただけであった。助五郎、さすがに良心が咎めたのか、「この首塚の傍らに、俺が死んだら埋めろ」と、いい残した話があるが、本当のところは分からない。
また、このことで江戸町方より飯岡一家に手入れがあったが、またもや上総下総の大小惣代の嘆願書により赦免となる。
繁蔵亡き後、子分たちはびゃく橋の辺りの血痕の土地をかき集めて、坊内原の共同墓地に埋めた。すぐに、一の子分勢力富五郎が跡目を継いだ。だが、まだ年若い豊子は繁蔵の子分の羽斗の勇吉という者に身を任せた。そのため一家の者に爪弾きをされ、居られなくなり笹川を出奔している。二人は江戸に出たが、御用の筋で身辺が危なくなった勇吉は豊子を捨て大阪に高飛びを企てた。だが沼津で捕らえられ、嘉永二年、小塚ッ原で断首された。後年、江戸で一人寂しく暮らしていた豊子は飄然と笹川に舞い戻り、明治七年に繁蔵闇討ちに逢った辺りに自然石の碑を建てている。
助五郎は笹川一家を根絶やしにしなければ、枕を高くして眠ることができない。復讐の為、富五郎はたびたび助五郎を襲撃した、との巷説がある。当然であろうと思われるが、助五郎は相当用心していたのであろう、上手くいかなかった。
二年後、助五郎は関八州の役人を動かし、総勢五百人といわれる大がかりな捕りものをやった。富五郎はたまらず子分数名と共に、東城村の金比羅山に逃げ込んだが、嘉永二年閏四月二十八日、五十二日間持ちこたえた後、力尽きて山上で自殺した。歳はまだ二十八と若く、さっぱりとした性格といわれている。繁蔵暗殺から三年目である。里の者はここに小さな碑を建て、祀っている。
笹川一家の残る有力な子分である、夏目ノ新助をお縄にして刑死させ、清滝ノ佐吉もお縄になり、勢力富五郎に遅れること二十五日、嘉永二年五月二十三日江戸小塚ッ原で獄門になった。これで笹川一家は完全に崩壊した。
ここにおいて、助五郎の目的が達成され安心して眠ることができた。
助五郎はふと我に返った。すでに家々の灯はくっきりと映え、日はとっぷりと暮れていた。随分と長く縁台に腰掛けていたことになる。少し肌寒さを覚えた。
? わしは単なる博打打ちの繁蔵とは違う。少なくともこの飯岡を救ったのはわしだ。 と、自分に言い聞かせる様にして頷き、縁台を担ぐと家に入っていった。
その後、体調がすぐれず、伏せることが多くなった。
翌年の春、死期を悟った助五郎は、自分の賭場に布団を敷かせ、息子の堺屋与助をはじめ大勢の子分の見守る中、大往生を遂げた。
安政六年四月十四日、享年六十八歳。

助五郎没後、舅の網持半兵衛が上方の講談師松廼家太琉を長滞在させ、助五郎が引き起こした数々の事件を、その状況を知る者たちをも呼び寄せ話して聞かせた。太琉はそれを筆記し「助五郎一代記」として仕上げた。当然、助五郎寄りのものになっている。
勢力富五郎の大捕りものが江戸で評判になり、嘉永四年講釈師宝井琴凌によって講談にまとめられ、事件の顛末が「天保水滸伝」として世に知られるようになった。水滸伝の命名は権力者側である助五郎一家が、大利根河原の決闘で笹川一家によって打ち負かされたことに由来している。堅気の衆から見れば、助五郎も繁蔵も乱暴狼藉悪徒の厄介者で困った存在である。しかし講談、芝居など娯楽の内では、日本人特有の判官贔屓によって、繁蔵は善玉の美男子、助五郎は悪の権現となり、飯岡以外の地において悪名を国の津々浦々まで轟かせるに至った。


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