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作品名:縁台の助五郎 作者:じゅんしろう

第4回   4
当日の早朝。飯岡一家は助五郎指揮のもと、利根川を船三艘で分乗して水路で来た者五十人余、陸路で来た者二十人余、計七、八十人で繁蔵の家を囲んだ。少し様子を窺っていたが、頃合いを見計らい一斉に、「御用、御用」といいながら石礫や手裏剣を飛ばしはじめた。この時点において助五郎側は、繁蔵の大勢の子分が待ち構えているとは思っていなかったのだ。数を頼んでの油断があった。
と、いきなり雨戸が外れ、勢力富五郎がそれを盾としながら、短槍で突っ込んできた。他の者も次々に飛び出し突進してきたのである。笹川方は飯岡方の人数の半分に過ぎない。だが戦い方の策を練っていたと見え、巧みな駆け引きであった。飯岡側は相手側の思わぬ反撃に、逆に不意打ちを喰らう格好になり、皆は大いに慌て浮足立った。
ここで繁蔵の友人、喧嘩で顔を斬られ口の辺りに大きな傷跡がある、俗に切られの清右衛門というのがいた。戦いになるや屋根の上に駆け登り、手拭いに油をしみ込ませていたのに火を付け振り回し、「鉄砲だァ、鉄砲だァ」と大声で叫び続けた。その声を聞くや飯岡側はさらに怯んだ。そこを突かれ、飯岡一家は態勢が乱れて次々に刃に掛かっていったのである。永井ノ政吉は逃げ戻る船の中で死に、永井の利兵衛、木ノ内の金治、桶屋の友三は笹川で殺され味方に収容されることなく、死骸は打ち捨てられた。親分にはぐれ、船にも戻れない者は陸路を逃げ帰るという、大混乱に陥り惨憺たるものであった。助五郎一家の斬り込みは、暁に始まり五つ時(午前八時)に野尻村の岸に逃げ帰るまでで、斬り合いの実戦はせいぜい一刻くらいの様だ。
助五郎一家では死者四名、負傷者四名という大敗北を喫した。一方勝利した繁蔵一家ではわずかに浪人平田深喜一名を失ったのみである。他の者は浅手程度だ。
親分が白を黒といってもまかり通る世界である。しかしながら助五郎一家内でも、今度の斬り込みに対しては気が進まなかったようだ。永井の利兵衛は息を引き取るとき、「この攻め込みについて、銚子の五郎蔵親分などは助五郎にその無法を論しゃしたが、きかなかった。あっしは死んでも笹川方に恨みはねえ」といったという。
ここで興味深いのは、平田深喜のことである。天保水滸伝では、向かう処敵なしの北辰一刀流の使い手、虚無的な平手造酒として登場する。だが、実際は助五郎の子分が三人係りで襲った。彼らは喧嘩慣れしているので、尋常の戦いはしない。深喜を取り囲み、機を見ていきなり常吉というのが後ろから組みつくや、そこを石松、新田ノ伊七が飛びつきそれぞれ匕首で腹を深々と刺した。よれたところを滅多切りにされ、都合十一か所斬られる深手を負ったのである。病身であるせいかも知れないが、むざむざ過ぎた。巷間、いわれているほどではない様に思われる。繁蔵の家に運ばれた平田深喜の、その最期を見届けた人物がいた。笹川町の若い衆であった林甚右衛門という人で、町の世話人から介抱を命じられたという。深手を負いながらも、繁蔵の家の近くに倒れていたところを賭場に収容した。血で染まった白地の単衣物を着ていたが傷口から腸がはみ出るなど無残な姿であった。ただ、気はしっかりしていたという。そしていよいよとなり、「繁蔵親分のこれからを見ることができず無念だ」といった。日付が変わった七日、すぐに絶命した。
繁蔵は助五郎が十手の威光をたてに、また攻め込むであろうことは必至と見た。素早く子分一同に有り金のすべてを分配し、それぞれ草鞋を履き旅に出て、いわゆる国を売った。
これだけの大喧嘩である、銚子の陣屋から役人が来た。さらに、関東出役桑山守助が取り調べをした。現場の見分や死体の検視を終えると助五郎に届出書を差し出すように命じた。その後、一件落着まで銚子陣屋へ仮入牢を申し付けた。握りつぶすには事態が大きすぎ、これまでの賄賂のことなど知らぬ顔である。慌てた子分たちは近郊の大小総代に働きかけ、赦免嘆願書を差し出してもらった。
嘆願書は出役から江戸町奉行に廻伸され、係り奉行の遠山左衛門尉景元(有名な遠山金四郎である。複雑な家庭環境に育った為か、若い頃遊侠の徒と交わったことがある。一説に桜吹雪の入れ墨を彫っているという話があるほどだ。その関係からこの道に通じていた)に、御用の筋であることが認められ、十月初めに牢から出ることができた。
飯岡側は八方手をつくし繁蔵の行方を追った。息子である堺屋与助は、父親が敗走の憂き目を負ったうえ自身も傷を負ったこともあり、仕返しの為、虚無僧に姿を変えて笹川に潜入し、しきりに消息を窺ったのである。だが、時だけが過ぎていった。
その三年余り後の弘化四年の春、諸国の親分のところを廻っていた繁蔵が、ほとぼりが冷めたころに(これは幕府関係の役所に対してである)笹川に帰還した。凶状持ちになった繁蔵を各地の親分衆は厚遇した。これは繁蔵の名が大きくなっていることを意味し、親分衆は助五郎に非有り、と見ていたと思われる。助五郎の評判が悪く、助五郎が放った追手も迂闊には手が出せなかったのだ。旅の修業で度胸もすわり、仁義応対も立派になっていた。するとあちこちに逃げていた子分たちも続々帰って来る。たちまち笹川一家は息を吹き返し、すぐさま奪われた縄張りを取り返して勢力を回復した。それも助五郎のことなど眼中に無い、というほどの拡大の仕方だ。ひとつ、渡世人としての器量が大きくなっていた。無論、飯岡一家は手をこまねいていた訳ではない。笹川の周辺に隠密を入れ、虎視眈々と機会を狙っていた。ただ、助五郎自身は前の争いで牢屋に入れられたことなど事情があり、表立っては動けない状況だ。だが子分に命じ、執念深くその機会を窺っていた。


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