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作品名:縁台の助五郎 作者:じゅんしろう

第2回   2
助五郎は蒸し暑い夏の夕刻になると、川端にある住まいから縁台を軽々と持ち出し往来に据え、団扇をぱたぱたと扇いで涼を取る。その姿は褌に白い下帯を腹に巻いただけの半裸である。目は大きく角張った顔をしていて、背丈は五尺六、七寸のでっぷりと太った身体であるが、両肩などは盛り上がるように張っていた。
最近、縁台に腰掛け団扇をつかいながら若い頃のことを思い出すことが多くなっていた。故郷にいた時、誘われて一年足らずであったが江戸相撲の友綱良助に弟子入りしたこと
があった。それが親方の急死の為相撲を断念し江戸を離れ、上総国佐久田村で雇われ漁夫となった。そして二十歳頃、当時鰹と鰯の豊漁場であった飯岡に仲間と共に出稼ぎにやって来た。そこで半兵衛という網元に雇われ、その家に多くの若い漁夫と共に寝起きすることになる。板子一枚下は地獄の漁夫たちである。喧嘩、博打の暴れ者の集まりだ。
 助五郎は力自慢の命知らずで度胸があり小才も利く。自然と兄哥分となって人が集まり、船頭となるという様に貫禄がついていった。また打算家でもあるので、将来を見据えて網元半兵衛の娘すえ女を手に入れ、女房にした。おおかた半兵衛に有無をいわせぬ状況にしたのであろうが、二人の間には子は生さなかった。その後、良子というのを妾にして生ませたのが、与助で一粒種だ。父親に似てこれもでっぷりとした身体の大男である。だが、飯岡一家の中で、いなせな石渡孫治郎(助五郎の甥)、知恵者永井の政吉と並んで、三本指の一人といわれているから、度胸もあり渡世人としては半端者ではない様だ。
急に助五郎は背中をひとひねりすると、辺りをきょろきょろと見渡した。
「おお、惣坊。じいちゃんの背中、掻いてくれろや」と、丁度前を通りかかった近くに住む、七、八歳くらいの坊やに声を掛けた。惣坊というのは後に飯岡の浜世話人になった石井惣助のことである。惣助はひとつ頷くと助五郎の背中に回り込む。その背中には大きな斜め十文字の傷痕があった。以前、飯岡から六里ほど利根川を上った笹川彼岸一帯を縄張りに持つ本姓岩瀬で、通称笹川の繁蔵一家手の者による闇討ちに遭ってできたものだ。隠居の歳になったあたりから、夏になるとひどい痒みが生じるようになった。それを近所の童に駄賃を払って、いやになるまで掻かせるのである。いまでは、この界隈の夏の風物詩となっていた。助五郎は惣助の掻きかたが性に合うのか、割増の駄賃を払ってでも捕まえては掻かせるのを好んだ。惣助は爪を立てると遠慮することなく、両手で傷痕を引き剥ぐようにして掻きはじめだした。がりがりがり、と音を立てて掻き続ける。助五郎の顔が快感で恍惚状態になってきた。そうしていると、傷痕の周辺もうずくような痒みが生じてくる。惣助は心得たもので、初めはその辺りを軽く、かり、かりと掻く。すると痒みが一層増すのである。痒みに我慢できなくなったのを見計らうかの様に、今度は爪を立て、強く、がりがりがり、とまた音を立てて掻きだした。この瞬間がたまらない。
「ううっ…」 じいーん、とくる様な快感に思わず小さく呻き声を発した。世の中にこれほどの愉しみ、があろうかとさえ思うほどだ。
孫の手という物があるが、それでは到底得られない満足感である。手が届くところは自分で掻けばよいはずだが、どういう訳か他人の手によって得られる快感には敵わない。
助五郎は身体に波打つ様な快感に目を閉じながら、難敵であった繁蔵のことを思い出すように、また考えだした。目に一丁子もなく、助五郎の名で出す全ての文は子分の安兵衛というのが書いたが、その代り非常に記憶力がよかった。
繁蔵の家は須賀山沿いの羽斗村で代々醤油と酢を醸造した旧家で、世間に知られた資産家である。そこの三男として生まれた。子供の時から学問や剣道を学んだが、田舎での習い事であるからさほどではない。助五郎もそうだが当時の無学の渡世人に比べれば、珍しく素養があるといえた。肌は白く角張った顔で背は高い。母のぬい女というのは須賀山小町といわれたほどの美人である。繁蔵の妹のふちも美しい娘であったが、何故か二十七歳で自殺した。一説に、失恋という話がある。その様な噂話がでるほどの美人ということであろうが、本当のところは分からない。繁蔵も美男子といわれていた。若い時から力が強く相撲好きだった。当人がその気になり、一度江戸の千賀ノ浦部屋の門をたたいた。が、所詮は田舎の若旦那相撲である。早々に見切りをつけたのか、一年ほどで村に帰ってきた。それから賭博に出入りし渡世の道に入っていった。家に金があり、本人の気っぷがよく度胸もある。金の切離れは綺麗なので、慕ってくる若い者も多い。出入りしていた賭場の文吉親分がその様子を見て、縄張りを譲り自分は隠居してしまったのである。一家を構えた後、勢力を拡大していったが、飯岡には一帯に睨みを利かした助五郎がいる。歳は十八も違った。初めはお互い相撲取りだったこともあり、歳の若い繁蔵が、「飯岡のとっさん」と従順で仁義をつくしていた。ときおり求めに応じて、たびたび助五郎に二つ返事で金を融通することがあった。さらには実子与助にお万という娘を女房に世話してもいたので、表面上は何事もなく良好であった。ただ、繁蔵は野心家でもあったので、盃を交わした者も百人ほどになった。勢力拡大するとともにお互いの縄張りが接するようになる。自然子分同士の小競り合いが生じてくるようになる。それが頻繁になり、だんだん酷くなってきた。新興勢力である繁蔵側は鼻息も荒い。勢いに任せ、あからさまに助五郎の縄張りを侵さんとする行為である。このあたりから、お互い狗を使い密偵を盛んに放っては相手の様子を探らせるようになった。
助五郎も、あの若造、俺に楯を突きやがりだしたな、という強い憤りを持つに至った
助五郎は蒸し暑い夏の夕刻になると、川端にある住まいから縁台を軽々と持ち出し往来に据え、団扇をぱたぱたと扇いで涼を取る。その姿は褌に白い下帯を腹に巻いただけの半裸である。目は大きく角張った顔をしていて、背丈は五尺六、七寸のでっぷりと太った身体であるが、両肩などは盛り上がるように張っていた。
最近、縁台に腰掛け団扇をつかいながら若い頃のことを思い出すことが多くなっていた。故郷にいた時、誘われて一年足らずであったが江戸相撲の友綱良助に弟子入りしたこと
があった。それが親方の急死の為相撲を断念し江戸を離れ、上総国佐久田村で雇われ漁夫となった。そして二十歳頃、当時鰹と鰯の豊漁場であった飯岡に仲間と共に出稼ぎにやって来た。そこで半兵衛という網元に雇われ、その家に多くの若い漁夫と共に寝起きすることになる。板子一枚下は地獄の漁夫たちである。喧嘩、博打の暴れ者の集まりだ。
 助五郎は力自慢の命知らずで度胸があり小才も利く。自然と兄哥分となって人が集まり、船頭となるという様に貫禄がついていった。また打算家でもあるので、将来を見据えて網元半兵衛の娘すえ女を手に入れ、女房にした。おおかた半兵衛に有無をいわせぬ状況にしたのであろうが、二人の間には子は生さなかった。その後、良子というのを妾にして生ませたのが、与助で一粒種だ。父親に似てこれもでっぷりとした身体の大男である。だが、飯岡一家の中で、いなせな石渡孫治郎(助五郎の甥)、知恵者永井の政吉と並んで、三本指の一人といわれているから、度胸もあり渡世人としては半端者ではない様だ。
急に助五郎は背中をひとひねりすると、辺りをきょろきょろと見渡した。
「おお、惣坊。じいちゃんの背中、掻いてくれろや」と、丁度前を通りかかった近くに住む、七、八歳くらいの坊やに声を掛けた。惣坊というのは後に飯岡の浜世話人になった石井惣助のことである。惣助はひとつ頷くと助五郎の背中に回り込む。その背中には大きな斜め十文字の傷痕があった。以前、飯岡から六里ほど利根川を上った笹川彼岸一帯を縄張りに持つ岩瀬こと、笹川繁蔵の手の者による闇討ちに遭ってできたもので、隠居の歳になったあたりから、夏になるとひどい痒みが生じるようになった。それを近所の童に駄賃を払って、いやになるまで掻かせるのである。いまでは、この界隈の夏の風物詩となっていた。助五郎は惣助の掻きかたが性に合うのか、割増の駄賃を払ってでも捕まえては掻かせるのを好んだ。惣助は爪を立てると遠慮することなく、両手で傷痕を引き剝くようにして掻きはじめだした。がりがりがり、と音を立てて掻き続ける。助五郎の顔が快感で恍惚状態になってきた。そうしていると、傷痕の周辺もうずくような痒みが生じてくる。惣助は心得たもので、初めはその辺りを軽く、かり、かりと掻く。すると痒みが一層増すのである。痒みに我慢できなくなったのを見計らうかの様に、今度は爪を立て、強く、がりがりがり、とまた音を立てて掻きだした。この瞬間がたまらない。
「ううっ…」 じいーん、とくる様な快感に思わず小さく呻き声を発した。世の中にこれほどの愉しみ、があろうかとさえ思うほどだ。
孫の手という物があるが、それでは到底得られない満足感である。手が届くところは自分で掻けばよいはずだが、どういう訳か他人の手によって得られる快感には敵わない。
助五郎は身体に波打つ様な快感に目を閉じながら、難敵であった繁蔵のことを思い出すように、また考えだした。目に一丁子もなく、助五郎の名で出す全ての文は子分の安兵衛というのが書いたが、その代り非常に記憶力がよかった。
繁蔵の家は須賀山沿いの羽斗村で代々醤油と酢を醸造した旧家で、世間に知られた資産家である。そこの三男として生まれた。子供の時から学問や剣道を学んだが、田舎での習い事であるからさほどではない。助五郎もそうだが当時の無学の渡世人に比べれば、珍しく素養があるといえた。肌は白く角張った顔で背は高い。母のぬい女というのは須賀山小町といわれたほどの美人である。繁蔵の妹のふちも美しい娘であったが、何故か二十七歳で自殺した。一説に、失恋という話がある。その様な噂話がでるほどの美人ということであろうが、本当のところは分からない。繁蔵も美男子といわれていた。若い時から力が強く相撲好きだった。当人がその気になり、一度江戸の千賀ノ浦部屋の門をたたいた。が、所詮は田舎の若旦那相撲である。早々に見切りをつけたのか、一年ほどで村に帰ってきた。それから賭博に出入りし渡世の道に入っていった。家に金があり、本人の気っぷがよく度胸もある。金の切離れは綺麗なので、慕ってくる若い者も多い。出入りしていた賭場の文吉親分がその様子を見て、縄張りを譲り自分は隠居してしまったのである。一家を構えた後、勢力を拡大していったが、飯岡には一帯に睨みを利かした助五郎がいる。歳は十八も違った。初めはお互い相撲取りだったこともあり、歳の若い繁蔵が、「飯岡のとっさん」と従順で仁義をつくしていた。ときおり求めに応じて、たびたび助五郎に二つ返事で金を融通することがあった。さらには実子与助にお万という娘を女房に世話してもいたので、表面上は何事もなく良好であった。ただ、繁蔵は野心家でもあったので、盃を交わした者も百人ほどになった。勢力拡大するとともにお互いの縄張りが接するようになる。自然子分同士の小競り合いが生じてくるようになる。それが頻繁になり、だんだん酷くなってきた。新興勢力である繁蔵側は鼻息も荒い。勢いに任せ、あからさまに助五郎の縄張りを侵さんとする行為である。このあたりから、お互い狗を使い密偵を盛んに放っては相手の様子を探らせるようになった。
助五郎も、あの若造、俺に楯を突きやがりだしたな、という強い憤りを持つに至った
助五郎は蒸し暑い夏の夕刻になると、川端にある住まいから縁台を軽々と持ち出し往来に据え、団扇をぱたぱたと扇いで涼を取る。その姿は褌に白い下帯を腹に巻いただけの半裸である。目は大きく角張った顔をしていて、背丈は五尺六、七寸のでっぷりと太った身体であるが、両肩などは盛り上がるように張っていた。
最近、縁台に腰掛け団扇をつかいながら若い頃のことを思い出すことが多くなっていた。故郷にいた時、誘われて一年足らずであったが江戸相撲の友綱良助に弟子入りしたこと
があった。それが親方の急死の為相撲を断念し江戸を離れ、上総国佐久田村で雇われ漁夫となった。そして二十歳頃、当時鰹と鰯の豊漁場であった飯岡に仲間と共に出稼ぎにやって来た。そこで半兵衛という網元に雇われ、その家に多くの若い漁夫と共に寝起きすることになる。板子一枚下は地獄の漁夫たちである。喧嘩、博打の暴れ者の集まりだ。
 助五郎は力自慢の命知らずで度胸があり小才も利く。自然と兄哥分となって人が集まり、船頭となるという様に貫禄がついていった。また打算家でもあるので、将来を見据えて網元半兵衛の娘すえ女を手に入れ、女房にした。おおかた半兵衛に有無をいわせぬ状況にしたのであろうが、二人の間には子は生さなかった。その後、良子というのを妾にして生ませたのが、与助で一粒種だ。父親に似てこれもでっぷりとした身体の大男である。だが、飯岡一家の中で、いなせな石渡孫治郎(助五郎の甥)、知恵者永井の政吉と並んで、三本指の一人といわれているから、度胸もあり渡世人としては半端者ではない様だ。
急に助五郎は背中をひとひねりすると、辺りをきょろきょろと見渡した。
「おお、惣坊。じいちゃんの背中、掻いてくれろや」と、丁度前を通りかかった近くに住む、七、八歳くらいの坊やに声を掛けた。惣坊というのは後に飯岡の浜世話人になった石井惣助のことである。惣助はひとつ頷くと助五郎の背中に回り込む。その背中には大きな斜め十文字の傷痕があった。以前、飯岡から六里ほど利根川を上った笹川彼岸一帯を縄張りに持つ岩瀬こと、笹川繁蔵の手の者による闇討ちに遭ってできたもので、隠居の歳になったあたりから、夏になるとひどい痒みが生じるようになった。それを近所の童に駄賃を払って、いやになるまで掻かせるのである。いまでは、この界隈の夏の風物詩となっていた。助五郎は惣助の掻きかたが性に合うのか、割増の駄賃を払ってでも捕まえては掻かせるのを好んだ。惣助は爪を立てると遠慮することなく、両手で傷痕を引き剝くようにして掻きはじめだした。がりがりがり、と音を立てて掻き続ける。助五郎の顔が快感で恍惚状態になってきた。そうしていると、傷痕の周辺もうずくような痒みが生じてくる。惣助は心得たもので、初めはその辺りを軽く、かり、かりと掻く。すると痒みが一層増すのである。痒みに我慢できなくなったのを見計らうかの様に、今度は爪を立て、強く、がりがりがり、とまた音を立てて掻きだした。この瞬間がたまらない。
「ううっ…」 じいーん、とくる様な快感に思わず小さく呻き声を発した。世の中にこれほどの愉しみ、があろうかとさえ思うほどだ。
孫の手という物があるが、それでは到底得られない満足感である。手が届くところは自分で掻けばよいはずだが、どういう訳か他人の手によって得られる快感には敵わない。
助五郎は身体に波打つ様な快感に目を閉じながら、難敵であった繁蔵のことを思い出すように、また考えだした。目に一丁子もなく、助五郎の名で出す全ての文は子分の安兵衛というのが書いたが、その代り非常に記憶力がよかった。
繁蔵の家は須賀山沿いの羽斗村で代々醤油と酢を醸造した旧家で、世間に知られた資産家である。そこの三男として生まれた。子供の時から学問や剣道を学んだが、田舎での習い事であるからさほどではない。助五郎もそうだが当時の無学の渡世人に比べれば、珍しく素養があるといえた。肌は白く角張った顔で背は高い。母のぬい女というのは須賀山小町といわれたほどの美人である。繁蔵の妹のふちも美しい娘であったが、何故か二十七歳で自殺した。一説に、失恋という話がある。その様な噂話がでるほどの美人ということであろうが、本当のところは分からない。繁蔵も美男子といわれていた。若い時から力が強く相撲好きだった。当人がその気になり、一度江戸の千賀ノ浦部屋の門をたたいた。が、所詮は田舎の若旦那相撲である。早々に見切りをつけたのか、一年ほどで村に帰ってきた。それから賭博に出入りし渡世の道に入っていった。家に金があり、本人の気っぷがよく度胸もある。金の切離れは綺麗なので、慕ってくる若い者も多い。出入りしていた賭場の文吉親分がその様子を見て、縄張りを譲り自分は隠居してしまったのである。一家を構えた後、勢力を拡大していったが、飯岡には一帯に睨みを利かした助五郎がいる。歳は十八も違った。初めはお互い相撲取りだったこともあり、歳の若い繁蔵が、「飯岡のとっさん」と従順で仁義をつくしていた。ときおり求めに応じて、たびたび助五郎に二つ返事で金を融通することがあった。さらには実子与助にお万という娘を女房に世話してもいたので、表面上は何事もなく良好であった。ただ、繁蔵は野心家でもあったので、盃を交わした者も百人ほどになった。勢力拡大するとともにお互いの縄張りが接するようになる。自然子分同士の小競り合いが生じてくるようになる。それが頻繁になり、だんだん酷くなってきた。新興勢力である繁蔵側は鼻息も荒い。勢いに任せ、あからさまに助五郎の縄張りを侵さんとする行為である。このあたりから、お互い狗を使い密偵を盛んに放っては相手の様子を探らせるようになった。
助五郎も、あの若造、俺に楯を突きやがりだしたな、という強い憤りを持つに至った


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