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作品名:縁台の助五郎 作者:じゅんしろう

第1回   1
下総国海上郡飯岡に、通称飯岡の助五郎という渡世人がいた。本姓は石渡といい、相模国三浦郡久郷村山崎の生まれで半農半漁の貧しい小前出身である。これが飯岡から上総下総周辺一帯を縄張りに持つ、子分三百人からなる一家を構えていた。飯岡の縄張りを本拠地にして、本業の網元の事業を成功させ、漁業の護岸工事の整備も行うという様に幅広く手掛けていた。
 名を売り出すにあたっては、若い頃から腕力に任せて随分と手荒い真似を重ねていった。当時、勢力を張っていたのは銚子の網持旦那の渡世人で,子分千人を配下に持つ木村屋五郎蔵である。その倅の勝蔵が飯岡の縄張りを持っていた。玉崎明神の祭礼に賭場を開いている処を乗り込み暴れた。それが縁となり、後に盃をもらった。さらに、この者と兄弟分として盃をあらためるや、近隣の者を傘下におさめ、ついに飯岡の縄張りを譲り受けたのである。それから渡世人としての手腕を発揮していった。
縄張り争いに口を利いて、一世一代の男を上げたことがあった。不動産の角兵衛、井の内の市兵衛による九十九里浜地曳網の場所争いの大喧嘩である。浜で百数十人が斬り結び死者がでるという状況になったのだ。それを静かな凪の朝の海、双方百艘余りの船に割って入るような形で、二艘の小舟に別れた助五郎と子分の通称行司の石松が乗り込み、石松が大音声で口上を述べて手打ちをやった。これが後々まで語り草になり、大いに人気を得た。じつは、助五郎は口下手であり、石松は江戸で長らく相撲の行司をやっていたという変わり種で、いざ喧嘩となると隙の無い見事な口上を得意としていた。助五郎自身もいちじ相撲をやっていた関係で、幾度も相撲興業の勧進をやった。このように一家は縄張りを広げ、助五郎五十歳の頃には、誰もたてつく者がいないという大親分になっていた。
また、松平右京之亮銚子陣屋から十手捕縄を預かり、目明しとなった。蛇の道は蛇で、悪を持って悪を取り締まろうという幕府の方針である。上表の書上には、飯岡は旗本大岡紀伊守の知行所であるので「大岡紀伊守組与力御知」とある。
渡世人の間では、二足草鞋といわれて、忌み嫌われる。取り締まられる側が、取り締まる側でもあるから、当然であった。事実、相当我儘な振る舞いを働き評判が悪い。
飯岡の助五郎は天保水滸伝において、笹川の繁蔵に対して典型的な悪党の敵役として描かれている。実際乱暴者で利己的な人物である。目的のためには関東取締出役(俗に八州廻り)らに対して金をばらまき、数々の利権を得ていた。それも普段から怠ることなく目配りをして、まんべんなく金を使っていた。妾を斡旋するなど、彼等との癒着は酷いものであった。目的の為ならば手段は選ばず、その意味では政治的な男である。
だが動機はともかく、ひとつだけ飯岡のために良いことをしたことがあった。
飯岡の海は時化になることが多い。毎年のように漁船が遭難して死者が出た。未亡人になった女は食べる為、町を出るよりないのだ。
天保八年八月、鰹漁に出ていた漁船が俄の暴風に遭い、一挙に七十余名が海の藻屑と消えた大惨事が起きたのである。ほとんどの漁師を失った町は死んだようになった。大勢の未亡人ができた。働き手がいなくなれば食う為、町を出るよりない。運が良ければ、下女の仕事にあり付けるかもしれない。しかし、多くは飯盛り女という名の女郎か夜鷹に落ちるかだ。人々がいなくなれば、町が成り立たなくなる。助五郎にとっても賭場も立てることはできない、一大事である。そこで忽然と立ち上がった。支度金とする為方々から苦労して千両という大金を工面すると、船に積んで自ら乗り込み、生まれ故郷の三浦に向かった。懇意にしていた、そこの山崎名主水島庄司の尽力もあり、ほどなく地元の次男、三男の漁師百人余りを連れて戻ってきた。荒っぽいやり方だが、生活に困っている未亡人のために、手当たり次第に年恰好の合いそうな男を亭主に取り持ってやったのである。女も好き嫌いなどいってはいられない。その為、町は忽ち息を吹き返した。助五郎は感謝され、大いなる人望を集めた。随分後のことであるが、昭和四年八月、町の有志により玉崎神社境内にこのことを讃える碑が建てられたほどだ。
老齢になった安政の初め頃、二代目を妾腹の息子堺屋与助に譲り、今は楽隠居の悠悠自適の身の上だ。


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