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作品名:余命宣告 作者:じゅんしろう

第9回   9
吐き気は続いていたが、吐くところまではいかず、何とか食事は摂ることができた。ところが、徐々に味が薄くなっていき、ついには無くなってしまった。何を食べても、ぼそぼそと砂を嚙むようであった。味覚障害に陥ったのだ。無味乾燥な食事は酷く応えた。ただ、辛い物を食べるとかろうじて、食べたかなと思える程度だ。その為、その種の辛い物ばかり食べた。無論、誤魔化しただけであるから、身体に良いわけもない。
通院日に、医師にそのことを訴えると、「副作用のひとつですね」といい、「ううん…」と小さく唸っただけであった。ただ、化学療法室の小森さんにいうと、すぐに味覚障害のための何枚かの食事療法紙を持ってきてくれた。基本的には亜鉛欠乏症になっているから、それを多く含む食材を摂るということである。牡蠣などの貝類や牛肉などを食べると良いという。救いは室の看護師全員が私の為に、あれこれアドバイスをいってくれたことだ。それが身に沁みた。家に帰ると、さっそく試してみたがすぐ回復するわけもない。諦めるわけにもいかないので、毎日続けるしかないのだ。さらに身体の変調が続いた。今度は体力が落ちたため、すぐ怠さを覚え、風邪を引きやすくなった。また、感染症にかかりやすいから、「人混みの多いところでは、マスクを着用するように」と、医師から厳命されてもいた。自分では如何することも出来ない、情けない身体になってしまったのだ。しかも身体の変調はそれで済まなかったのである。
或る日、家で本を読んでいたときである。渇きを覚え、お茶を入れようとして立ち上がった。すると、ふらふらとなり倒れそうになった。慌てて足に力を籠め踏み止まろうとしたが、かなわず崩れるようにして転んでしまったのだ。最初、立ち眩みのせいであろうと思ったが、そうではなかった。部屋の中でのちょっとした移動だけで躓き、よろけそうになって、踏ん張って堪えようとしても転んでしまうのである。無論、下着の履き替えも立ってはできない。副作用における、明らかな筋力の低下である。実際、転倒することが多くなり、階段から二度落ちた。幸いにも下りきる少し手前だったので、ことなきを得たが衝撃は相当なものである。寿命がその分短くなっても、この苦しみから一時期でも回避できるなら、それでも良いとさえ思った。買い物での外出の時はよほど注意をしていたから、そう転ぶことはなかった。後に、筋向いに住む内田さんの御主人が、その時の私の様子を見て、「酔っぱらっているのか」と思っていたそうである。自分では気が付かなかったが、傍目にはそう映ったのであろう。だが、気を付けているにも関わらず家の中では油断があるのか、ふとしたことで頻繁に起きた。おかげで、パソコンなどの器具類を傷つけ、茶わん類を破損させるなどは日常茶飯事であった。自分の身体をコントロールできないことほど情けないことはない。さらに、こむら返りといわれるふくらはぎが攣る症状に悩まされ、また、両足のむくみが酷くなった。また、風邪を頻繁に引きやすくなり咳き込むことが多く、状況は悪化していく。だが、それだけで済まなかったのである。
寒さも和らぎ春が目の前というあたりから、睡眠中においておかしな夢を見ることが多くなった。以前にも、事業の失敗した際の何かに追われる様な悪夢を何度も何度も見た。それがまた見るようになったのだ。それも、夢かうつつか分からぬ様であった。それがさらに酷くなり、現在の生活状況そのままの失敗する夢を見て、慌ててふためき夢から覚めるという状態が続いた。その都度、汗にまみれた身体をタオルで拭い、しばらく荒い息が整うまで項垂れるという、毎日であった。睡眠時間も不規則になり、夜眠れぬ場合の時は、昼間、うつらうつらとしていた。目が覚めると時間の経緯が判断できず、昼か夜か分からぬこともあって、慌ててしまうことがしばしばあった。この時期、まるで白昼夢の様な実体のない生活を送っていたのだ。
私は趣味でインターネット囲碁を打っていたが、思考力が著しく損なわれ棋力が二段ほど落ちてしまった。不注意でパソコンに入力していたデーターをうっかりと消すことがしばしば起きた。日常生活の面でも顕著で、うっかりとした物忘れが多くなった。まともな判断力ができない混沌とした生活を送っていたのだ。その時がいちばん最悪な状況であった。


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