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作品名:余命宣告 作者:じゅんしろう

第10回   10
「白血球の数値が低いですから、今回は抗癌剤投与を中止にしましょう」と、武藤医師が採血表を見ながらいった。抗癌剤投与には耐えられない状態であるという。無理に投与すれば危険な状況に陥りかねないようだ。次回の通院日まで、胃薬類の錠剤を飲むだけで済む。正直、ほっとした。その代り、癌の進行状況が進み悪化するかもしれない。その帰り道、ふと気が付き反対方向の南小樽駅に向かった。歩道橋の下に線路が走っている。
? ああ、もう咲いていたか。 駅の土手には鮮やかな緑色の蕗の薹が眼下に広がっていた。初めて癌を患った時、同室の癌患者であった川本さんが蕗の薹を見て死にたいといった。その川本さんはすでに亡くなり、代わりに私が毎年見に来るようになっていたのである。川本さんは桜の美しさにはこの世に未練が残り、それは見ないといっていたが、私は時間的に見ることができそうである。ただし、それが最後の花見になるだろうが。
抗癌剤投与が無い分、体調が少し良くなって来たのか、気分が前より良い。暖かくなってきたこともあり、顔面がピリピリとなる刺激が和らいだ。味覚も少々戻った。そこで、マスクをして久しぶりに散歩をすることにした。家から港方面に向かった。その辺りは運河があり、観光地になっていた。近年外国人が大挙して押し寄せてくる。特にアジアの国々の人々が多い。台湾人であろう、人懐っこく甲高い声が交差しているのが耳に入ってくる。最近では東南アジアの人々も目に付くようになっており、ビジャブと呼ばれるスカーフ姿の女性も多い。イスラム圏の人々はおおむね静かで、中国人とは好対照であった。
? みんな、元気だなあ。 人々の元気な姿を目にするのは良いものである。何となく浮かれた気持ちになり、元気を貰った気になった。
その帰り、家の近くにある二階建ての大型スーパーマーケットに寄った。二階にある食料品売り場で買い物をしてレジに並ぶと、係りの女性は二十歳くらいで若く、ふくよかでぽちゃぽちゃとした愛嬌のある顔立ちをしていた。会計をする際、ポケットの小銭が如何も出しづらかったので、つい、「金が出るのを嫌がっている」と冗談をいってしまった。すると娘さんは、クスリ、と笑った。それが娘さんとの出会いの始まりだった。
以前、この店でアルバイトの女子高校生と交流したことがあった。それが生きていく上
での、小さな心の支えになった。どの様なきっかけであろうと、人との出会いは面白いものであり、有難いものである。
何度か見かけるうち、ここの契約社員らしいということが分かった。いつもにこにこと接客している。この笑顔、以前何処かで見た気がしたが、その時は分からなかった。私も彼女のレジに並んだときなど、体調が良いと軽い冗談をいうようになった。娘さんもそれに対して反応を示すようになった。私に子供がいれば孫くらいの歳の差である。死にゆく者として、無意識に人との繋がりを求め、あるいは若い女性の温もり、やり取りを欲しているのであろう、との想いを感じていた。
次に病院に行くと白血球の数値がだいぶ回復していたので、また抗癌剤投与をすることになった。途端に何とも嫌な気分になる。重たい足取りで化学療法室に向かった。
「カルテによると、数値はぎりぎりかしら、気分が悪くなったら、遠慮なくおっしゃってね」と小森さんがいった。無理は禁物の様である。小森さんは専門家であるから、ある意味医者より現場での経験値が高く信頼できるのだ。
日々暖かくなってきているとはいえ、油断は出来ない。風邪を引きやすい体質になっており、一旦なると咳が止まらなくなる。この日も投与している間、胸のあたりを開けなければならず、咳き込みが止まらなかった。
「咳止めの薬を吸っていますか?」と、小森さんが視兼ねていった。
「はい、吸ってはいますがあまり効かないですね」 薬は小さな容器型の噴霧状のものである。すると、小森さんたちが相談して蒸気吸入器の様なものを用意してくれた。吸うと効果てき面で、咳が止んだのである。その間気分が良く、ホスピタリテーイとはこういうことをいうのであろうと、妙に感心をした。
帰ってから抗癌剤の錠剤を服用する日々であるから、気分は良くない。また、各種の副作用がぶり返し悩まされることになった。南小樽駅には十本ほどの桜の木が群れを成している。思いついて行ってみた。だが、満開時の桜を見ても感慨はさほどなかった、というのが正直な気持であった。体調が悪いと寂しくなるだけだ。桜吹雪は見るのを止めた。何処まで続くぬかるみぞ、という言葉があるが、それも今年いっぱいか、と自虐的な思いに囚われたのもこの時期であった。


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