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作品名:積丹半島 作者:じゅんしろう

第8回   8
天流荘に何度も通う内に、車を山間ともいえる道を走らせるようになった。ほぼ一本道で、小樽市の主ともいえる天狗山に至り市外に入る、裏道ともいえた。
 帰り道の途中に、塩谷に小さな車の休憩所がある。彼女はそこに止めてほしいというので、車を寄せた。そこからは国道五号線を挟んで海が見える。ただ夜間のため、遥か遠くに幾つかの漁火が見えるだけの暗い海であった。彼女は煙草を吸い、煙をゆっくりと吐くと、「私、今の病院を辞めるわ」と、ぽっり、といった。
「次の仕事の当てはあるの?」 「ええ、前々から膝の負担の軽い小さな病院を探していたのだけれど、ちょうどいい診療所の募集があったから、受けてみるわ」            
「そう、それならいいけれど」 その後、二人は黙って暗い海を見ていた。
恋人同士なら、一言、二言慰めの言葉をかけ、あるいは黙って身体を引き寄せ抱擁するところであるが、いかんせんそのような間柄ではない。私はもどかしい思いにかられた。
「私はいったい如何なってしまうのかしら、」と、また、ぽっり、といい、頭を垂れ、両手で顔を覆った。そして、すすり泣きの声が聞こえた。私は堪らず彼女を引き寄せ、子供をあやす様に背中を軽く小さく叩き続けた。すると彼女は私の胸に顔を埋めてきた。私たちは長いことそうしていた。
やがて、彼女は身体を起こし私を見つめ、「ありがとう、心地よくて救われたわ」といった。私は堪らない気持ちになり、黙って彼女の唇に唇を合わせた。
顔を離すと彼女はきょとんとした顔で、「どうして?」といった。
「こういう場合、たいていの男はこうすると思うよ。それとも私に関心がない?」
「そうはいわないけれど、八田さんとは友達でい続けたいと思っていたから」
その時彼女は、異性としてではなく人として私に関心があることを改めて理解した。
「そうか、それは悪かったね。今のことは忘れて」といい、私は車を発進させようとした。すると彼女は、「待って」といいながら私の両腕を掴み引き寄せた。
「こんなにして貰っているのに、一度もお礼らしいこともしていないで、ごめんなさい。八田さんのお蔭で私の中の氷が随分と解けてきた」といいながら顔を寄せ、唇を重ねてきた。長い口付けであった。
顔を離すと、「ありがとう」といい、彼女は助手席の窓の方に顔を向けた。これ以上のことは拒否という意思表示だと受け取った。
私は車を発進させ、なんとなく彼女との仲もこれで終わりかもしれないな、と思いながら車を運転した。
その後仕事も忙しいこともあり、それに没頭して遅くまで働き、夕月にも行かず彼女と会うこともなかった。
そんなある夕方のことだった。突然、彼女から会社に電話があった。
「八田さん、厚かましいお願いだけれど、今夜温泉に連れて行ってくれないかしら。新しい病院に移ったのだけれど、また足も痛めてしまったの。頼めるのは八田さんしかいなくて」と、沈痛な声であった。私は一瞬どうしょうか躊躇したが、人として放っておけない気持ちになり承諾した。その病院は会社から車で五分ほどの近場だった。
私の仕事が終わり次第、病院まで迎えに来てほしいとのことである。私は仕事を早めに切り上げ家に帰り、支度を終え母親に今夜食事は要らないというと、「そうかい」と笑顔でいった。デートと思ったのであろう、早く息子に後添えを貰ってほしい気持ちがありありだった。
彼女の新しい勤務先は、趣のある古い木造建築の診療所であった。出口に車を止めると、待っていたのであろう、すぐに出てきたが、足を引きずり痛々しかった。
「ごめんなさい、無理をいって」 「いや、いいよ」
それから彼女のマンションに行ったが、歩いても十分ほどの距離である。膝のことを考えて、近場の勤務先を選んだのであろう。彼女が支度を終えた後、すぐに天流荘に向かった。ちらりと彼女を見たら、温泉に行けることでほっとしたのであろう、表情が幾分和らいでいた。何やらバックから包み紙を取り出し、「夕食を食べた?」と訊いてきたので、「いや、まだ」と答えると、「じゃあ、一緒に食べましょう」といって、豆餅を取り出した。診療所の近くに餅屋があり、美味しいから時々買うのだという。小樽市は古くからの餅屋や和菓子屋が彼方此方にある。
運転している私に、その豆餅を手で千切っては、「はーい、あーん」といって、口の中に入れてきた。私がもぐもぐと食べている間に、彼女も同じ豆餅を千切り食べだした。私が食べ終わると、また千切って口の中に入れてくれた。そのようなことを繰り返した。美味しかったが、この行為は恋人同士のやり取りであると思い、以前のこともあり少々複雑な気持になった。
到着すると、私たちはすぐにそれぞれの浴場に入っていった。今夜は長丁場になることは分かっていたので普段より長めに入ったが、何度も蒸し風呂に入るのを繰り返し、浴場での過ごし方が大変だった。
私が風呂から上がって、三十分ほどで彼女も頭にカラフルなタオルを巻き付けて姿を現した。痛みも和らいだのであろう、表情も晴れやかである。背が高く、スタイルもプロポーションも良い彼女の歩みを、他の男性客の幾人かは目で追っていた。
「ありがとう、八田さんのお蔭だわ」といいながら自動販売機で牛乳を二本買い、私に一本渡すと、彼女は喉を鳴らしながらごくごくといっきに飲み干した。
「美味しい、世の中にこんな美味しいものがあるなんて」といい、私に笑いかけてきた。私も牛乳を飲んだが、それよりも彼女の躍動感に満ちた喉の動きに大人の色気を感じ、その残影が頭にこびり付いた。


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