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作品名:積丹半島 作者:じゅんしろう

第6回   6
「どうしたの?」と、私はできるだけ静かに訊いた。が、彼女は答えず泣き続けた。私はポケットからハンカチを取出し、彼女の手の上に置いた。彼女は小さな声で、「ありがとう」といい、ハンカチを掴み眼に当てた。私は彼女が泣き止むまで、黙って待ち続けた。やがて泣き止むと、彼女は問わず語りでぽつりぽつりと話し出した。それによると彼女は若い頃運動神経が好く、スポーツに打ち込んどぃたという。だが、スキーで転倒し激しく両膝を強打して後遺症が残った。最近、何かの拍子で膝が外れることがあるというのだ。看護婦ゆえ自分で治すことが出来るが、年々おきることが多くなったといい、膝の屈伸が出来ないという。今の病院は大きいがゆえ忙しく、階段の上り下りがきつくて、このままでは勤めが続きそうもないと、泣きそうになってしまったといった。
「病院の方はジョアンナさんの膝のことを知っているの」
「ううん、弱みを見せるのは厭」
そのとき私は、一人で生きていかねばならない彼女の孤独を知った。
「治す方法は無いの?」  「うん、温泉に入ればだいぶ良くなるみたい」
 「じゃあ、湯治温泉は無理としても、ときおり入りに行けば良くなりそう?」
 「ええ、そう思う」  「そうか…」
 私は考え込んでしまった。まじかで、好奇の目に晒されて生きてきたであろう彼女の孤独を垣間見た様な気がして、放っておけなくなったのである。
 「じゃあ、今度近場の温泉に入りに行こうか」
 「本当、連れて行ってくれるの?」
 「うん、膝を治さなければ如何にもならないでしょう」
 「嬉しい、有り難う。救われたわ」と、彼女は深い瞳で私を見ていった。そこには、下心なく窮地に手を差し伸べようとする私に対しての素直な感謝の眼があった。
 数日後の夜、私たちは余市町の車で四十分ほどの近場の温泉施設に行った。小樽市から国道五号線を走り、余市町に入った所を北上すると山奥の突き当りに有った。天流荘といい、そこは宿泊もできるが日帰りの温泉を利用する客が多いようだ。大きめの室内風呂の他に露天風呂、さらには薬草を用いたサウナがあった。私たちはそれぞれ男湯、女湯に別れて入る。私は一時間ほどであがり、休憩室で彼女を待った。が、それから一時間経っても現れない。ようやく姿を見せたのはその後三十分経ってからだった。つまり、彼女は二時間三十分ほど入浴していたことになる。それが彼女の定刻であり、私はその時間差に苦労することになった。こうして、湯治目的で入りに行くが、休みが合う日曜日は昼間行くことになる場合、半日覚悟せねばならない。ただ、膝に対しては効果があり、足の折り曲げが容易になったと笑顔を見せた。
 そんな或る日の日曜日のことだった。
 「今日は別の所に行きたいけれど、いいかしら?」
 「かまわないが、何処?」 「積丹の婦美という所まで」
 「ふみ?」 「私がナビゲーターするわ」
 ということで、ともかくも車を積丹に向けて発進した。以前夜に二人で古平まで行ったことがあるが、その先はない。未知の世界に踏み込むようで、何となく心にさざ波がたった。
 運転しながら、余市町から先は、昼間行くのは小学生の時以来だな、ということを思いだしていた。余市町から出足平峠を越え下ると、海岸線に出て古平に至る。そこから先は美国という小さな漁港で、また山道を上り積丹半島の台地に出た。左手に積丹岳を見ながらしばらく行くと、道は二手に分かれていた。彼女は、「まっすぐ行くと積丹半島の切っ先に出て海よ、婦美は右手」といい、行く手を指示した。
 やや勾配のある山道を行くと、左手に朽ちかけたゴンドラが見えてきた。
 「ここよ」と彼女は指差した。見ると両側が笹で密集している、車一台が通れるような道があった。入っていくと酷いがたがた道である。ようやく見晴らせる所に出たが、道はうねりがあり整備されてはいない。しばらく行くと、道の下った所に大きな二階建ての山荘風の建物があった。車を玄関脇に寄せた。玄関脇にはコロポックル荘と看板が掲げられていた。引き戸を開け中に入ると、畳敷きの大きな広間があった。左手に喫茶コーナがあり、右手には十五以上の座席があるようだ。正面は全部ガラス戸だ。だが、客は誰もいず、がらんとしていた。宿舎の人も現れる気配もない。どうなっているのだろう、と思っていたら、彼女は躊躇せず中に入っていったので、私も続いた。館内の時計を見ると、小樽から此処まで一時間半程であった。
 館内はすべて木造りで、天井には何本かの大きな木の幹を這わせるようにしていた。広い食事席の右手側の廊下に数枚の写真が飾ってあったので側に寄ってみた。大勢で宴会をしている様子や、大人数の記念写真などであった。以前は来客が多かったことが分かった。
今は初夏であるが閑散としているようだ。そのとき、玄関の戸が開く音がした。
 「あ、おばちゃん。どこに行っていたの?」
 「ああ、ジョアンナさん、お久しぶり。裏で山菜を取っていたのさ」
 私も二人が会話をしている玄関まで行ってみた。声の主は七十代くらいで大柄の福々しい顔の婦人であった。いっぱいの山菜が入った籠を小脇に抱えていた。
 「あら、入らっしゃい」と、婦人は満面の笑みを浮かべて私にいった。
 「こちらはお友達の八田さん。おばちゃんはここの女将さん」と、彼女はそれぞれ紹介をしてくれた。私も挨拶を返しながら、これだけの規模で他に従業員は見当たらないとは、どうなっているのだろうと疑問に思った。私たちは喫茶コーナのカウンター席に座り、コーヒーを入れて貰うことにした。ガラス戸からは雑木林が見える。
 女将さんとの雑談で、山荘のおおよその状況が分かった。御亭主が健在のときは盛況であったが、亡くなられてからはじり貧で、ゴンドラなどの整備費用もまま成らなくなり、従業員も一人減り、二人減りで遂に私一人になってしまったといった。今はときおり来る昔の常連客でなどで、何とか運営していると自嘲気味に話してくれた。
 彼女も常連客の一人であったが、最近は電話のやり取りで連絡を取り合っているという。そうしてみると、私は新たに見付けた運転手だな、と内心可笑しかった。
 女将さんは、これから昼食の用意をするからと厨房に行ってしまった。どうやら、昨日のうちに彼女は予約をしていたらしい。私がここに来ることを断っていたら、どうするつもりだったのであろう、と思い、彼女にそのことを訊いてみた。
 「あ、そのときはバスで来るわ」と即答が返ってきたが、私が断るはずはないという、自信が垣間見えた。どうも、私を手のひらの中に取り込みつつあると、考えているようだ。


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