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作品名:積丹半島 作者:じゅんしろう

第1回   1
昔、積丹半島は陸の孤島といわれていた。私の小さい頃は、アスファルト道路といった洒落たものはなく、むきだしになった土や砂利道だけである。たぶん、小学校の高学年の時だったと思う。街の或るデパートの催しで小樽から積丹半島へのバスツアーに当たり、どういう事情であったかは忘れたが私一人が行くことになり、みしらぬ大人に囲まれて、ひとりバスに揺られて行った記憶がある。切り立った断崖絶壁にへばりつくようにして道は続き、ところどころにある集落もくすんだ色の殺風景な家並みで、子供心にもずいぶんと心細かった思いをしたことだけは覚えている。大人だったら美しい海や奇岩に興味は尽きないところなのだろうが、子供だった当時は、そのようなことに興味も関心もなく、ただ、ひゅうひゅうと鳴る浜風の音や悪路をがたがたと揺れて走るバスのことだけが記憶に残った。道は険しい断崖絶壁に阻まれていて、半島を一周することはできない。道の途切れるずいぶん手前のどこかの漁港でバスを降り、そこで出された弁当を食べて帰ってきた。ただ、それだけのことだった。
 それから、三十年以上たった四十歳代のいままで一度も半島に行ったことはなく、ほとんど関心もなかった、そう、あの女と知り合うまでは。
 私は親から受け継いた、従業員が三、四名ほどの小さな食品資材卸店を経営していた。父親はすでに他界している。一度結婚したが母親と同居していたため、母と妻の折り合いが悪く、その事と子供がいなかったこともあり離婚を経験していた。嫁と姑の諍いの間に立つ面倒から解放されると、気楽さから長い間再婚せずにきていた。会社も順調であり、金銭的にはまずまずの生活を営んでいるといえた。
 そんな或る夜のことだった。久しぶりに夕月という馴染みの小料理屋に行くと、客は一人の女がカウンターに座っているだけである。カウンターはエル字型になっていて、斜向かいの横顔に何となく見覚えがあった。ただ、何処で会ったかまでは、思い出せない。女は三十歳代後半のようで、白人との混血のようだ。黒を基調としたセンスの良いワンピースの高級洋服のようだ。化粧は薄めであるが、なかなかエキゾチックな顔立ちをしておりスタイルも良い。煙草を吸い白い煙を吐く姿は男を引き寄せるものを持っているといえた。ただ、私は煙草を吸わないし、顔立ちは好みとはいえない。従って、酒を呑みながら,何処で会っただろうかと、酒の肴替わりにぼんやりと考えていただけである。この店に通うようになって十数年が過ぎていたが、此処で会った覚えはない。六十歳代の女将と女との会話も、さほど親しそうな様子は見られないから、この店に来たのはごく最近の様であり、たぶん数えるほどだろう。その夜はそれだけで何事もなく、女の正体を思い出せぬまま店を出た。
 私は趣味といえるほどではないが、ときおり、気まぐれに海釣りをする。といつても大袈裟なものではなく、小樽は海と山に囲まれた坂の街なので、岸壁まで車で降りて行き、そこでのんびりと釣りを楽しむといった程度である。
 そこで久しぶりに昔の知人に会った。もう、十五、六年ほど前になろうか。その頃、仕事を終えた後の気分転換に、ときおり自転車で岸壁からの夕暮れの景色を望み、釣り人の成果を覗きながら散策していた。石狩湾を隔てて望む増毛連山は切ないほどに美しかった。当時の小樽市は斜陽の街といわれ、港は船舶の停泊も少なく閑散とした寂しいものであった。その分、釣り人は思い思いの場所で釣りを楽しんでいたわけである。
或る春の日の夕方のことだった。第二埠頭といわれる岸壁で独り竿釣りをしている人がいた。細面に眼鏡を掛けた小柄な男の人だった。私より幾つか上のようで、釣り竿を岸近くに寄せて下を覗き込むようにしていた。私もなんとなく気になり自転車を降りた。
私も覗き込んでみると、ガヤという小魚が釣糸の辺りにたむろするように泳いでいた。メバル科の魚で体長二十五センチ前後になり、煮付けやみそ仕立ての汁などが旨い。名の由来はがやがやたくさんとれるためという、ユーモラスなものである。
竿に当たりがあり釣ると、彼はそれを魚籠に入れた。中を見るとすでに十匹ほど入っていた。このような小魚をどうしょうとするのか不思議に思い、「この魚どうするのですか?」と訊いてみた。当時の私にはこのような小魚を食べる、という感覚がなかった。
彼は振り返り、「煮つけにすると美味いずらー」といった。私は彼が地元の人ではなく、本州出身らしいということに意外に思った。どこかの方言らしいが、そのときは分からない。後に岐阜弁であることを知った。
彼の名は山崎といい、人懐っこい性格のようですぐに打ち解け、いろいろと話をした。一、二年ほど前に東京から小樽に来て、気に入ったから住み着いたということだ。今、小さな喫茶店を開く準備をしているといった。連れ合いの女性が北海道出身の人で、その関係で小樽に立ち寄り、そのまま居ついたという。私も興味が湧き、後日その店を訪ねていくことを約束して別れた。


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