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作品名:大前田栄五郎の脇差 作者:じゅんしろう

第5回   5
  V     
 江戸時代の遊侠というものは、堅気の人には可哀想なくらいの謙譲を示した。座敷で同席をすることは無く、廊下に座って畏まり話すのである。このような話は数多くある。
例えば、商家の丁稚に対しても丁寧に対応する。かの乱暴者の国定忠治でも旅の空の下、道で百姓が働いているところに出くわすと、頬冠りを取り丁寧にお辞儀をしたと言う。これらの示すところは、堅気衆のお陰で飯を頂いているという気持ちの表れである。これに反して堅気衆に乱暴や横柄な態度を取る親分がいれば、その程度の者、と心ある親分衆は見切り軽蔑をしたものだ。栄五郎も子分らに堅気に対しての定法を厳しく言い聞かせた。
 閑話 沼崎吉五郎という遊侠について、興味深い話が残っている。かの吉田松陰が、安政六年十月に首を斬られる前日に、《 留魂録 》を脱稿した。だが、門人に渡す術が無い。どうしょうかと苦しんでいるとき、吉五郎が近々、八丈島へ遠島ということが分かった。松陰は、何十年係ってもよいから門人の誰かに渡してくれと、切々と頼み込んだ。単なる博打打ちの吉五郎も松陰の事はただならぬ人と知っていたのであろう、よく分かりやした、引き受けやす、とそれを受け取った。松陰が斬首された後吉五郎は島流しされ、十五年の歳月が流れ明治七年赦免になり、東京へ帰ってきた。吉五郎は乞食も同然であったが、ただ懐深く《 留魂録 》を持ち歩いていた。が、松陰の弟子とは誰であるか、一介の博打打ちでは皆目見当もつかない。二、三ヵ月歩き廻って、漸くにして外務省に勤めていた、後の子爵野村靖に手渡す事が出来、嬉し泣きをしたという。事情を知った野村はもらい泣きして、必ず身を立つようにするといったが、堅気の旦那とお付き合いで来るものではありません、と言いそのままそこを辞し、その後消息を絶ち要として行方が分からなかった。こういう義理の堅さが昔の遊侠の心情なのである。
 栄五郎はそのあたりのところは徹底していた。子分衆に往来を歩くとき百姓と同じ、素足に草鞋と定まっていた。一家は厳格で、自分は言うまでもなく、誰にも絹物は着せなかった。順達貸元{他家の親分に客人を紹介できるかどうかの貫禄を持つ貸元をいう}になり、初めて白足袋を許された。この貸元が数百人いたというから総数は分からぬが、栄五郎一家の大きさが分かる。羽織も貸元からであるが、襦袢は許されなかった。ただ、虎五郎だけには一人これを許した。二十一歳も年下だが人間が出来ていた。これは清水の次郎長の大政、小政でも身なりの厳格さは同様である。さらに年を取っても籠や馬に乗らぬばかりか、勧めた子分に対して、「てめえは俺の所へ来て今まで何を修行してきたのだ」といって叱ったという。更に、高札場の前を決して通らなかった。天下御威光の所を通っては、裏道を歩いてお目溢しをいただいている身では罰が当たる、と言うことである。この類いの話は、よくできた親分と言われる人には多く残っていた。


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