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作品名:大前田栄五郎の脇差 作者:じゅんしろう

第1回   1
「ええい、この野郎、黙って聞いていりゃ調子に乗りやがって」
 田島こと大前田栄五郎のお供に付いてきた子分の幸松は堪忍袋の緒が切れたのか、栄五郎の日ごろの戒めも聞かず啖呵を切った。
 だが、香具師はせせら笑っているだけであった。
 ここは浅草の大道の土産物屋で子供用の脇差を買い求めたものだが、栄五郎を田舎者の親父に見て、小ばかにした口の利きかたに幸松が腹に据えかねたのである。
 栄五郎は四十一、二歳頃の時、玩具の脇差を買い求めた。象牙作りの長さ一尺三寸で柄に蓮華、鐺には青蛙、鞘の短冊に「古池や蛙飛び込む水の音」有名な芭蕉の句が書かれ、象嵌がしてあり、水色の下げ緒付きで、竿は青く、元より竹光である。それを気風のよい江戸っ子が、大の男がちゃちな玩具を買い求めたことに、嘲笑うのには多少は分からぬでもないが、我慢の限界を超えた幸松は、「やい、やい、やい、こちとらは、小の買い物とはいえ客だぞ」というなり長脇差の刀をすらりと抜き斜に構えた。
 元よりそのようなことに動じる香具師ではない。すぱっと上半身の半纏を脱ぐや、見せつけるように見事な色彩の登り龍が全身に彫られていた。この頃、入れ墨が彫られているのは、香具師や、火消し、鳶職などである。遊侠は親に貰った大事な身体に傷つけてはならぬと戒めていた。入れ墨をするようになったのは、明治に入ってからである。
 幸松もこのようなことに動じる輩ではない。今にも斬り付けそうな勢いである。そこへ同じ香具師仲間が大挙して「なんだ、なんだ」と押し寄せてきた。元より言い争いを起こした香具師も計算済みである。いよいよ仲間にいいところを見せようと「なんだやるか」と啖呵を切ってきた。既に何人かは懐にしのばせてあったどすを取り出している者もいた。
 栄五郎は目を半眼にして黙っていた。ひどい無口で自分から口を利くことはまず無かった。目玉は大きく鋭い。頬はこけ鼻は鷲鼻のように高い。眉は太く尻上りで丈も六尺はあろうかという、偉丈夫であった。といって弱いわけではない。若いころ、上州で名主を務めていた、角田常八豊房なる武術家がいた。剣道、体術など実戦的な総合武術を教え、その使い手に習っていた。以前、三、四人の荒くれ者を素手で投げ飛ばしたこともあった。腕つぷしの強さと気風の良さで関東一の大親分として名を馳せていた。栄五郎も愈々覚悟を決め、香具師連中を投げ飛ばさざるを得ないなと思ったところである。
 いよいよ浅草で、血の雨を降らそうかという抜き差しならぬ大騒ぎになった。
そこへ芝居の大向うから声を掛けられようかという人物が劇的に登場した。栄五郎、江戸屋寅五郎と並び称される、関東の三五郎の一人であり口入れ屋、香具師、とび職の元締めである新門辰五郎の登場であった。後に辰五郎は最後の将軍、徳川慶喜に贔屓にされ維新後、静岡県に転居した時も一緒に付いていき、陰で尽力を尽くした人物である。


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