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作品名:身延山にて 作者:じゅんしろう

最終回   23

身延駅に着き、山門を潜り本堂の境内に入っても、心は揺れ動き続け、そこから一歩も前に進むことが出来なくなっていた。
報恩閣の休憩所にしばらくいたが心が定まらず、今夜は麓に有る何処かの宿坊に泊まろう、と思い外に出た。夕暮れにはまだ間があったが、参拝客はまばらであった。境内から山門にいたる石の参道を降りようとしたとき、突然、正面から一陣の強い風が吹いた。修一は思わず顔を背け身体を反転させた。枝垂れ桜が揺れ、渦を巻くように桜の花びらが宙に舞いあがった。修一はその様子を茫然と見ていた。桜吹雪の美しさよりも、得体のしれない恐怖さえ感じるものであった。喜和子のいる陸前高田で起こった津波を連想させた。自然が織りなす営みの驚異を感じたのだ。陽の光に溢れた穏やかな海は美しい。だが、荒れ狂い怒涛のように押し寄せる津波の恐怖。美しさと破壊は紙一重だと思った。また強い風が吹いた。修一は目を瞑り治まるのを待った。僕はどうしたらいいのだと、頭を抱えた。やがて風が止み静寂が訪れたが、修一は心が鎮まるまで長いこと目を瞑っていた。すると微かに足音が聞こえてきた。
修一はその足音に導かれるように目を開けた。報恩閣前の枝垂れ桜の下を、黒衣姿の青年僧に手をひかれた和服姿の年老いた婦人が歩いていた。そこへ桜の花びらが、ひらひらと舞い降りてきた。それに気が付いた二人は、幾重にも重なりあうように咲いている満開の枝垂れ桜を仰ぎ見た。その下に、花びらがまた舞い降りてきた。二人はにっこりと笑い、何か囁きを交わすと静かに歩き去って行った。
修一は青年僧と上品な老婦人の様子、柔らかな陽の中のさらさらと流れるような桜吹雪の情景に、ただただ美しいと思った。自然と人間との調和を見たように思った。同時に自然の厳しさと優しさを見た思いでもあった。人間はこの世界で否応もなく生きていかなければならないのだ、と実感した。悟りといえるものではないだろうが、ひとつの光明を見たような気がしたのだ。
仏様の導きのようでもあり、もやもやとしていた心の中の霧が晴れていくのを感じた。宋の詩人蘇東坡が詠み、息子を案じて母が書を手渡そうとしてくれた、柳は緑、花は紅真面目を躰で理解した。ありがとうございます、と声に出し父と母を想い一礼した。熱く涙が溢れた目頭をハンカチで拭い、ひとつ大きく息を吸い込みゆっくり吐くと、社務所へと向かっていった。


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