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作品名:身延山にて 作者:じゅんしろう

第22回   22
「 退院してからにして」 その言葉には非難めいたものがあった。
「いや、出来るだけ早く行きたい」 少しでも早く得度をして帰郷しようと考えているのにと、修一は母親に水を差されたように思った。
「そう、それならば好きになさい」 直子も修一の言葉に反発するようにいった。母親と息子のわだかまりは続いていたのである。惣太郎はそのような二人に対して何もいわず、目で修一に部屋を出るように促した。修一は惣太郎に一礼すると、寺に向かった。
「どうした?」 惣太郎の問いかけに、直子は堰を切ったように経緯を語りだした。
「そりゃ、あなたのいいつけを守らず、勝手なことをしょうとしましたけれど…」
ひと通り直子の不満を聴き終えると、「母親としての役目は十分はたした、後は見守るだけだよ。私たちと修一とは、そういう時なのだ」と、惣太郎は直子にこれまでの労苦をいたわる様に諭した。
「そう、そうね。分かってはいるのだけれど…」 直子はうつむき、白髪が目立ちはじめてきた髪に手を遣り気が付いたように、「髪を染めてみようかしら」と惣太郎に笑いかけた。
翌日、修一は病院に惣太郎を見舞うと、高岡を後にした。
高岡から京都経由で新幹線に乗り、静岡駅で身延線に乗り換えた。身延までは一時間半ほどだ。だが、修一は清水駅で降りた。今日はここで一泊するつもりである。清水市には有名な景勝地の三保の松原がある。陸前高田では見ることが叶わなかった松原を見てみたいと思ったからだ。喜和子との別れに、一区切りを着けたいと考えたのだ。
三保の松原行のバスに乗り、終点からは松林を散策しながら海岸に出た。緑の松林と駿河湾の緩やかな弧を描く砂浜に波が打ち寄せ、遠く、頂に白い冠を載せている富士山を望んだ。その美しい情景に修一は声もなく、しばらくの間呆然と眺めていた。やがて、陽ざしが弱まり富士山が山頂から朱に染まり始めた。夕焼けの富士山は、一人で見るには寂しすぎる光景であった。
何事もなければ、いずれはうららかな陽ざしの中を喜和子と二人、陸前高田の松林を散策していたであろう。運命の悪戯というにはあまりにも酷い仕打ちである。修一は堪らず踵をかえした。夕暮れが迫るなか、枝がしなやかに踊るような幾重にもかさなる見事な松が目に入った。天女が舞い降りたという伝説のある羽衣の松であった。修一は思わず立ち止まり、魅入ってしまった。それが喜和子への想いと重なっていった。すると、修一は幾重にも美しい曲線を描いている枝がするすると伸びだし、絡め取られそうな錯覚に陥った。喜和子の柔らかな両腕が首に巻きつき、官能的な甘い香りに包み込まれた。
「喜和子…」 修一はそう呟くと、みるみる涙が溢れだし嗚咽にむせび泣いた。
翌日、身延に向かう列車に乗ったが、修一の心は重たかった。喜和子との決別のつもりで三保の松原に立ち寄ったが、意図とは逆の結果になった。いまだに喜和子への思いを引きずっている自分の心を知っただけであった。あるいは無意識のうちにその姿を追い求めていただけであろう。未練に心が縛り付けられていたのだ。失ったものの大きさにもがき苦しんでいたのだと思った。
―僕は今まで何をやって来たのか、読経の日々は何であったのか。心を糊塗しただけではなかったのか。このまま修行に入ることが出来るのか。 幾度も項垂れては、答えをみいだせぬ自身の不明を恥じ入るばかりだった。


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