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作品名:身延山にて 作者:じゅんしろう

第16回   16
その後、詩子は修一を庭に誘い、そこにまつわる思い出話を語った。江戸時代からの老舗の酒蔵であるという。代々の当主が庭の手入れに力を入れ、贅を尽くした今日のようなものに造りあげられたということだ。修一の住む寺院にも庭があり、大きくはないが傾斜を利用したもので時期になると花で満ち溢れる。この家の庭は相当な広さである。ただ、威厳はあるが一抹の寂しさのようなものを、修一は感じた。
「この庭は古い因習にとらわれているようで、小さい時はあまり好きではなかったわ。昔から東京に憧れていてね、どうしても一度は東京で生活してみたかったの。そこで惣太郎さんと今の連れに巡り合ったという訳、楽しかったわ」と、詩子は問わず語りのように見事に手入れされている植木や庭石の数々を見ながらいった。修一は、この人は本心を語っているのだろう、と思ったが、喜和子も東京に出てきた動機は似たようなものであろうかと感じた。小さな町から大都会に憧れをいだく少女時代の喜和子を連想したのである。その夢を自然の脅威が無残にも打ち砕いたのだ。そのとき、喜和子の別れの言葉が現実味を帯びて、漠然とであるが二人の今後に強い不安を覚えた。
昼近くになって吉川が戻ってきた。市の商工会議所でも支援の対策を打ち出す為、急遽、会議が開かれることになり見送ることが出来なくなった、と詫びをいった。
「いえ、とんでもありません。色々とご厚情を頂き、有り難うございました」
「また、陸前高田市に行く事があるときは、遠慮なくうちを利用してください」
「有り難うございます」と修一は頭を下げた。
三人で昼食を食べた後、吉川は出かけ際、「お父上に宜しくいってください」と手を差し伸べてきた。修一は握り合った吉川の手に、何か意味のある力強いものを感じた。それは吉川だけにしか分からないものかも知れない。だが、父ならば理解しただろう、吉川さんと父に代わって僕が媒介となったのだ、と修一は思った。
帰りの汽車は詩子が駅まで送るという申し出を断り、一人でタクシーに乗り向かった。喜和子のおかれた状況を考え、吉川さんの震災を支援する取り組みの姿勢に、これ以上好意に甘えるわけにはいかないと思ったからである。
鶴岡駅から何度か乗り換えて高岡市の自宅に着いたのは、九時を過ぎていた。途中電話を入れていたので、夕餉の支度が出来ていた。疲れていたが、両親に報告が先だと思い修一はこれまでの経緯を話し出した。
惣太郎は終始黙って聞いていた。直子はときおり溜息を吐いたり、喜和子の父親が家とともに流され行方不明であると聞くと、目頭を押さえたりした。最後に、「吉川さんが僕の手を握り、お父上に宜しくいってください」と、修一が吉川の言葉を正確に伝えると、初めて顔を上げ頷き、「疲れているだろう。食事をしたら早めに寝なさい」といい残して自身も寝室に向かった。


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