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作品名:身延山にて 作者:じゅんしろう

第1回   1
身延山久遠寺は樹木数百本といわれる満開の桜で彩られていた。この時期、それを愛でるため多くの参拝客で賑わう。特に境内の報恩閣前、客殿前の樹齢四百年といわれる二本の枝垂れ桜は有名で陽光の下、記念撮影をする人が絶えなかった。
 山本修一は報恩閣前でその様子を少し離れた木陰から見ていた。すでに、小一時間ほどになっていた。修一はこの木陰から一歩も踏み出すことができなかった。うららかな春の日差しにこの身を曝けだすことができなかった。ときおり聞こえてくる、参拝客のかろやかな笑い声や話し声に耳を塞ぎたくなるほどだった。近くを通り過ぎる彼らの足音さえにも、眉を顰めた。
 修一は沈痛な表情で自問していた。
僕は今までいったい何をしてきたのか、と自責の念に駆られていた。僧侶になる資格があるのだろうか、とも思った。頭を掻き毟りたい衝動にも駆られ、唇を噛んだ。
 そのとき、陽が雲に遮られ境内が陰になった。修一はそれを待っていたかのように、報恩閣に向かって歩いて行った。報恩閣には信徒の休憩所がある。休憩所の畳敷きの広間には参拝客が思い思いの場所で休んでいた。大声を上げる人はいなかったが、あちら此方からの囁きが静かなうねりとなって広間を流れていた。修一はその片隅に腰を下ろすと、折り立てた長い脚を両腕で抱え項垂れ、しばらくその姿勢のままでいた。
 やがて修一は、ふうっと、ひとつ溜息を吐くと、遠くを見るような目つきになり、前日、旅立つ前に見舞った病室で言葉を交わした、父の青白い顔を思い浮かべた。
 「これからか?」 「はい…」
 「私は大丈夫だから、心配することは無い」 「……」
 「昨日、あらましは聞いた。お前のことを案じるがゆえだ、分かるな。それよりも、母さんが気に掛けているようだから、心配させるな」 「はい…」   
修一は口ではそういったが、病身ながら気丈に振る舞おうとする父の言葉を痛々しく感じた。老いた父と、母との小さなわだかまりを残したまま、一人高岡の街を離れようとする自分に後ろめたさを感じていた。
修一は富山県高岡市にある、日蓮宗の代々続く或る寺の一人息子だった。この春、東京に有る日蓮宗系の大学を卒業し、得度の為、久遠寺で修行することになっていた。
昔から、当然のように寺の跡取り息子と、周囲から見られ期待されていた。
 修一もそのことに特に疑問を擁いたことは無かった。しかしながら、父親から仏教に関して、面と向かい合い何かを教わったということは無かった。生き方について、特に意見されることなく、気ままにさせてくれていた。父親は坦々と背中だけを見せていた。躾けや小言などは母親の直子の担当といえた。ただ、情操教育ということで幼いころから茶道と書道を父親に、華道を母親が熱心に教えてくれた。いまでは、どこに披露してもいいというほどの、一通りの作法を身に付けていたといってよい。そのようにして育った。


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