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作品名:平四郎の恋 作者:じゅんしろう

第6回   6
平四郎は憮然となった。文子とは確かに恋愛結婚ではない。だが昔はほとんどが見合い結婚であり、生活するうえで齟齬はない。そういうものだと、疑問をいだいたことはない。さらに平四郎の青年期は戦争で明け暮れたといってよい。軍隊では戦友の死や多くの人々の死を見てきた。自身も生死の境目を彷徨った体験もある。必死に生きていくことだけで精いっぱいの、恋愛など無縁の世情であった。せいぜい淡い想いがひとつ、ふたつ、遠い過去に有ったような記憶しかない。文子も同じ時代を生きている。似たような境遇ではなかったかと思い、それは仕方のないことだと考えていた。慶子はそのひどい混乱期を知らない。娘に自分の人生を土足で踏みつけられたような気がした。
「夫婦のことだ、二度と口を挿むことはするな」 平四郎は娘に静かではあるが、きっぱりといった。平四郎が怒った時の云い方を知っている慶子は、「すみません」といい、それからその事を口にすることはなかった。だが、平四郎の胸の内に、娘の言葉が残った。自分は妻を愛していたのか、と、ときおり考えた。しかし、その明確な答えを自分に見出すことができず、戸惑いを覚えただけに終わっていた。妻はそのことを肌で感じていたのであろう、さらに妻の秘められた情熱の血を娘が受け継いでいることを知った。だが、娘との溝が埋まることはなく時間だけが過ぎていった。
瀬川さん、という声に我に返り顔を上げると、いつもの女将の顔がそこにあった。
「先ほどはお恥ずかしいところを見せまして、相済みません」
「ああ、いやなに、何でもありません。今日のおすすめ定食をお願いします」
女将は黙って頭を下げ、支度をはじめた。
その後、あの男が店に来ることは無く数ヶ月がたった。ただ、そのことがあってから、女将の平四郎に対しての態度が微妙に変わった。信頼に似た、ある親しみが加わったようである。平四郎は社交的ではあるが、お喋りではない。陰口や相手が困るような言動はしないのである。したがって、女将に事情をあれこれ訊くことはなかった。店で起こった、女将と元亭主であろう男のことを世間に漏らすことはなく沈黙を守った。そういうことから女将の方がときおり、平四郎に軽い世事の相談事をするようになってきた。それはあたかも娘が父親に物事を尋ねるように。
或る日のこと。平四郎は家の古い電気冷蔵庫が壊れてしまったので、近所のリサイクルショップ店に行った。九十歳になった平四郎には新品の製品は無用であると考えていた。身の回りのものは必要最小限でよく、できれば残りの寿命を鑑み、家の物を少しずつ整理していきたいとも考えていた。


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