平四郎には妻との夫婦喧嘩の記憶がなかった。今の女将のように感情を露わにした妻を見たことがなかった。いつも、静かな女だった。それで良いと思っていたが、文子が亡くなって四十九日の法事の後、慶子と二人きりになった時、思わぬことを訊いてきた。 「お父さんはお母さんのことを好きだったのですか?」 予期せぬ言葉に娘を見返すと、法要の後に呑んだ酒の酔いが残っていたのか、赤い顔をしていた。 「何だ、急に」 平四郎は娘の真意を知ろうと、あらためて見なおした。 笑いかけて冗談の態を繕っていたが、目が笑っていなかった。 「どうした、何がいいたい」 娘は妻に似て世間的にはおとなしい女と思われているが、ときおり思いがけなく強い感情を露わにすることを平四郎は知っていた。自分は社交的な性格ではあるが激情家ではない。どちらに似たのであろうかと思うことはあったが、嘗て、文子は平四郎の前でそのような素振りを毛ほども見せたことはなかった。 慶子は平四郎の問いに直ぐに答えようとはせず俯いてしまった。平四郎は夫婦の機微に口をはさもうとしてきた娘の言葉に少し不快感を覚えたが、母親を亡くしたことで気持ちの整理がまだできていないのであろうと、娘をおもんばかった。 「お母さんが可哀相…」 慶子は俯いたまま小さな声でいった。 平四郎は娘がいった言葉の意味が分からなかった。 「どうして、お母さんが可哀相なのだ。どういう意味だ」と、つい平四郎も語気を強め、詰問口調になった。 ゆっくりと顔を上げた慶子の目には涙が浮かんでいた。平四郎は涙目になっている慶子を訝しんだが、その言葉を待った。 「前に一度だけお母さんが、私はお父さんに愛されていたのかねえ、と愚痴をいったことがあったの。お父さんは怒鳴り声や手を上げることは一切なく、浮気の心配をさせたこともない、申し分のない良人。でもねえ…、一度くらいはぶつかり合ってみたかったわ、といったのよ。そのあと慌てて、ごめん罰が当たるわね、いまのは忘れて、と打ち消したけれど。でも、とても寂しそうだったわ」と慶子は平四郎の目を見ながら、言葉をかみしめるようにいった。それは亡き母親に代わって、父親の真意を問うという意思が感じられた。平四郎は亡くなった妻の意外な一面を娘によって知らされたことになる。 「それはいつのことだ?」 平四郎は努めて穏やかに訊いた。 「今年の春、亡くなる三月ほど前ね。二人で縁側に座りながら、なんとなく梅の木を見ていたら、梅の木はお父さん、周りの花は私、とお母さんがいったのよ。そのあと、その言葉を口にしたの。あの花々はお母さんからお父さんへの思いのメッセージだったのね、予感めいたものがあったのかしら。最後に、娘に自分の気持ちを知ってもらいたかったのね、あんなお母さんの顔、初めてだったわ…」 慶子はまた俯き、目にハンカチを当てた。
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