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作品名:平四郎の恋 作者:じゅんしろう

第4回   4
店に入ると客は見知らぬ初老の男が一人だけで、俯いてビールを呑んでいた。店の中は張りつめた空気が感じられ、いつもの雰囲気ではなかった。女将は平四郎に対して強張った表情で小さく、いらっしゃい、といった。いつもなら黙ってお銚子を出してくれるのだが、それがなかった。女将とその男の間は、訳ありの関係であるのは明らかだった。
「お酒を」 平四郎は努めて穏やかに注文した。
「あ、はい」 女将は慌てて応じたが、その声にほっとした調子が感じられたので、男とは極めて深刻な状態までには至っていないな、と平四郎は判断した。
何時ものように平四郎は酒を呑みはじめたが、女将は黙り込んでいた。ふと、視線を感じたので顔を上げると、男と目が合った。男は慌てて目を逸らしたが、粘り気のある厭な目だと思った。不快感を覚えて帰ろうかと考えたが、女将をひとり放っておけない気になり、そのまま呑みつづけた。また、視線を感じた。見ると男の目があった。
「何か?」 「あ、いや」といいながら男は項垂れるようにして俯いた。
平四郎は小心者の男にありがちな、席を外せ、というメッセージだと思った。女将を見ると今までにない、縋り付くような目で平四郎を見返してきたので、ますます女将をひとりにしておけないと思った。平四郎は時間をかけて酒を呑みつづけた。他の客は依然として来なかった。
「もう一本、お願いします」 この店に通いだしてから、初めてのことだった。女将は平四郎の意図を察したのか、「はい!」と力が入った声で応えた。
二本目に手を付けたときだった。
「随分と探したんだ。なあ、考え直してくれないか」と、男が周りを憚るようにいった。
「厭です、もう帰ってください」 女将は強い口調で即座に答えた。
平四郎はそのやり取りで、男が復縁を求めている女将の別れた亭主であることを知った。以前、女将と客とのやり取りで何度か結婚していたことを聞き知っていたからである。
男は女将の剣幕に俯いたが、また、顔を上げると同じことをいった。
「くどいです、早く帰ってください」
「母も亡くなり、もう問題もないし…」 男はぐずぐずといった。
「あなたそのものが嫌いなの。帰って、帰れ!」 
女将の怒鳴声に男は顔面蒼白になり、「そうか、私自身が嫌いなのか、そうだったのか…」と、か細い声を出しながらよろよろと立ちあがり、出て行こうとした。戸に手をかけたが躊躇しているようで、何度も振り返った。が、女将の怒りを含んだ眼に目を伏せた。ようやく戸を開けたが、「勘定を…」と、思い出したようにいった男の言葉に、「いらない、二度と来るな!」と女将はまた怒鳴り声で応えた。男は弱弱しい目で女将を一瞥すると、すごすごと帰っていった。しばらくの間、女将は身体を微かに震わせ目を瞑り俯いていた。店の中はシーンと静まりかえった。平四郎にとって他人の諍いごとに出くわした思わぬ展開であったが、黙って酒を呑みつづけた。そして、亡くなった妻の文子のことを考えた。


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