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作品名:平四郎の恋 作者:じゅんしろう

第3回   3
二人だけになった。沈黙だけが続き、川の速い水音だけが庭に響いた。
「お義父さん、寿司はここで食べましよう」と幸夫がいい、部屋を行き来して慶子が用意した二人分のお茶と寿司の入った大きめの折箱を縁側に置いた。川音にくぐもった咀嚼の音が加わった。食べ終えた後、二人はまたぼんやりと庭を見ていた。
やがて、「お義父さん、慶子が心配しています。その女性のことを詳しく教えていただけないでしょうか」と、幸夫が静かな口調で切りだした。
平四郎はいったん俯くと顔をあげ、一度、ふう、と息を吐き、ここに至った経緯を思い起こしながら話し始めた。
文子が亡くなった後、慶子との確執は別にして、健康体を維持していたこともあり介護施設に世話になることもなく、一人で生活を続けることにした。旧国鉄職員の年金は多額で、悠々自適といったところだ。しばらく身の回りのことは無論炊事なども自身でした。これまでどおり、社交的な活動も続けた。しかし、一年過ぎていった頃から、夜、一人で食べる寂しさと味気なさに、炊事そのものが億劫になってきた。今まで近くにある市場で魚や惣菜など買い求め調理してきたが、コンビニストアで弁当を買う気にはならなかった。
そんなときだった。或る催し物の帰り、すでに市場は終了する時間が迫っていた。自然と足はそこに向いてはいたが、これから調理をする面倒が気持ちを鈍らせていた。ふと市場近くで、食事処、という赤提灯が目に入った。当然、その店のことは以前から知ってはいたが、今まで眼中になかった。が、吸い寄せられるように暖簾をくぐって入った。中はカウンターに七席だけという小ぢんまりとした造りだった。
「いらっしゃい。あら、初めてのお客様ですね、ようこそ」 
五十歳代の和服に割烹着姿という小奇麗な女将がにこりと笑い、シャキッとした声で挨拶をしてきた。その声と笑顔に平四郎は救われたように感じた。それが始まりだった。
店名はふくろうといい、昼食と夕食の定食料理屋である。女将一人で切り盛りしていて、夜は酒も呑むことができる。最初はときおり食べに行くだけであったが、料理と客質の良さで居心地が良く、いつしか常連客になっていた。女将の名は裕子といい、娘の慶子と同年代であった。テレビこそ置いてあるが、カラオケがないところが気に入っていた。平四郎はカラオケの騒々しさが大嫌いで、その種の催し物には一切参加したことがない。女将目当ての飲み屋と違い、女将と他の常連客とのからりとしたやり取りを、食事前の銚子一本の酒をちびり、ちびりと呑みながら横で聞いているのが楽しみになった。平四郎自身も親子ほどの年の差の女将に対して、人としての好意を持っただけである。自分の年齢からしても、それ以上のことは無縁のことと思っていた。こうして四年ほどが過ぎた、或る小雨降る夜のことだった。


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