十日ほど後のことである。平四郎は女将と自宅で向かい合っていた。 「今日まで大変お世話になってしまいました。あらためてお礼を申し上げたい」と平四郎はいい、深々と頭を下げた。 「いえ、私の方こそ実の父と過ごしているみたいで、楽しかったです。それより如何なさったのです、あらたまっておっしゃるなんて」と女将は怪訝な表情を浮かべ、訝しがった。 「予てから決めていたことですが、そろそろ老人ホームに入ろうかと思っています」 「まあー。それでは、もう、こうしてお会い出来なくなるということですか」 「いえ、私は貴女に出来ればずうっと係わっていただきたいと考えています」 「それは?…」 「これから話すことは、大変不躾で失礼なことと思いますが、気に障ったら、どうか年寄りの戯言と思い怒らないでいただきたい」 平四郎は十日間考え抜いたことを女将に話し出した。 それは便宜的に自分と結婚してもらえないかというものであった。そうすれば自分が死んだ後、貴女に半額ほどの遺族年金が入る。旧国鉄年金は民間企業と比べて倍額であるから、民間並みの年金額に相当するであろう。ただ、この家は娘の慶子に残すことになる。さらに、いやらしい気持はなく、老人ホームに入居と同時に結婚し、同居することはない。純粋にこれまで親身にしてくれた感謝の気持ちからだけである、と。最後に、「まだ、娘に話してはいないが、遺族年金は娘に係わりのないことですから、その心配はご無用です。何よりも、この何年間尽くしてくれた貴女へお礼をさせてください」と、平四郎は誠意を込めて女将にいい頭を下げた。 女将は平四郎の突然で予想外の申し出に困惑した様子で、しばらく声がなかった。 そして、「今はあまりに突然のことで、頭の中が混乱しております。どう、お返事してよいのか分かりません。お時間をいただきとうございます。後日、きっと、お伺いしに参ります」というと、女将は逃げ帰るようにして家を出ていった。 平四郎は女将の行動が予想していたことの一つとはいえ、流石に気恥ずかしい思いに囚われた。自分の言動が女将の自尊心を傷つけてしまったかもしれないと思い、もう、これで会うことは叶わないだろうかと溜息を吐き、唇を噛んだ。しかし、最後の女将のいった言葉に、一縷の望みを託しもした。そして、平四郎は一度青年のように赤らめた顔を上げると、右手で頭を軽く叩き狼狽えた自分に苦笑いを浮かべた。 数日間、平四郎は落ち着かない日々を過ごした。無論、あれから店には顔を出してはいない。女将も家に来ることはなかった。
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