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作品名:平四郎の恋 作者:じゅんしろう

第12回   12
だが、気がかりなのは女将のことであった。この数年間、随分女将の世話になっている。女将と過ごす時間はとても楽しく貴重なものであった。充実した日々を過ごしているといえた。女将も今では、平四郎の世話をすることは会うことが叶わなかった実父へ、せめてもの恩返しの真似事のつもりだといっていた。以前は恨んだこともあったが、今ではこの世に生を授けてくれたことに感謝しているといっていた。それだけに入居する前に、心根の好い女将へ何らかのお礼が出来ないかと考えていたのである。
そういった或る日のことだった。平四郎は市などが主催する各種サークル類から、だんだん身を引くようにしていたが、最後に書道教室が残った。そこで懐かしい婦人と再会したのである。その婦人と会ったのは平四郎が定年退職して間もない頃だった。そのとき、軽登山の愛好会に入っていて、小樽近郊にある春香山に登った時に出会った。平四郎よりひとまわりほど年下だった。その婦人は何人かの同年輩の婦人たちと平四郎の前を賑やかに歩いていた。婦人たちの会話が自然と耳に入ってくる。自然に触れる楽しさや喜び、山に対する畏敬の念など山の頂に近づくほど話は崇高なものになっていった。だが、下山したときのことだった。また、偶然にも同じグループの婦人たちが平四郎の前を歩いていた。今度は山を下るほどに、旦那や子供の問題、近所との係わりなど下世話なものになり、遂には老後の年金の話になったのである。その時、話の落差の滑稽さに思わず笑ってしまった。その婦人も活発な行動力があると見えて、ときおり何かのサークルで出会うことがあった。そのことから、婦人の方は知らないようだが、何年かぶりの再会であっても平四郎が顔を覚えていたのである。平四郎はその婦人の顔を見た途端、だいぶ前に女将の、「おとうさんのように丈夫で、こうなったら百歳まで働く」という言葉を思い出した。その時は、平四郎も笑って受け流していたが、これまでの話から女将は年金をろくに支払うことが出来ないような生活をしてきたのではないかと、あらためて考えた。つまり、女将の場合は国民年金であるが、まともに支払えるようになったとしても、店を出してからの十年程ではないのか。そうならば、受給年金額は知れている。子供はいないから誰に頼ることなく、これからも働き続けなければならない。老後の不安と闘っているのだ。それで、あのような言葉になったのではないのか、と。
―迂闊だった、何故気が付かなかったのか。 平四郎は内心忸怩たる思いに陥った。
平四郎の旧国鉄時代の年金は民間の倍額といわれている。それで、定年退職後は文字通り悠々自適の生活が保障されていた。自身の生活の安心感から、女将の親切心に甘えていただけで、その老後の不安を顧みてあげることが出来なかった己を恥じ入った。平四郎は、その日から深く考え込んだ。


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