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作品名:平四郎の恋 作者:じゅんしろう

第1回   1
「梅は咲いたか桜はまだかいな」ではじまる、しょんがえ節という端唄は本州の唄である。北海道では冬の長く白い季節を終えた後、春、いっせいに花が咲く。梅と桜の開花はほぼ同時期といってよい。
 瀬川平四郎の家の庭にある一本の梅の木にも花弁が咲き始めた。
 「今年も無事、咲いたか」と、平四郎は目を細めて愛で、感慨深げに呟いた。
その梅の木はよく墨絵や日本画の題材として描かれているような姿をしていた。黒っぽい木質で枝振りも短めのごつごつとしたいかつい感じであった。その枝に対照的で可憐な薄紅色の花弁が咲く。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿という諺があるが、これは庭木の剪定法である。長年、平四郎が丹精込めてその様に手入れをしてきた。国鉄を定年退職した後、梅を描いた図鑑を買い求めますますそのことに熱中した。
十年前に亡くなった妻の文子が生前戯れに、「そんなに好きなら、あなたも絵を描いてみたら」と勧められたことがあった。画才の無いことは自覚していた平四郎であったが、趣味をさらに広げようと、つい、その気になった。こだわり性の平四郎はしばらく日本画用の筆や絵の具の顔料選びなど、そのことを研究しまた熱中する時を過ごした。
だが一揃い買い求め何度か試みたが、楽しかったのは描く前段階だけで、画才の無いことをあらためて自覚するだけに終わった。今は押入れ奥深く仕舞ってある。
「そろそろ昼か」 平四郎は空を見上げ、陽の高さで時間を推し測りまた呟いたが、その言葉には湯鬱そうな響きが感じられた。
平四郎の子供は一人娘だけで慶子といい、六十歳を幾つか過ぎている。慶子には子供が三人いるが、すでに皆独立していて五人の孫がいる。平四郎には孫や曾孫にあたる。昼に慶子が夫婦二人で来ることになっていた。
平四郎は今秋に九十五歳になる。数年前まで市の催し物や各種サークルに盛んに参加し矍鑠としていたが、近ごろ急激に体力の衰えを感じるようになっていた。その為、或る老人ホームに入ることを決めた。だが、娘夫婦が来るのはその話し合いの為ではない。数日前に電話で簡単な経緯を伝えた、平四郎の結婚話のことであった。


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