「あのう、どなた様がたまと声をかけても、この通りなのですよ」と、登美が言った。 「娘さんが一度だけ、たまといったと聞いていましたが」 「はい、お嬢様はその後、一度もたまとお呼びになったことはございません」 惣左衛門が言ったとおり、娘の発した言葉は、たま、という一言だけということになる。医学的にありえることなのか、と鴻池は疑わざるを得ない。 「私もその後、何人もの医者に診てもらったのだが、不可思議だというばかりで、埒があかなくてね」と、惣左衛門は鴻池の疑問に答えるように言った。 次に鴻池は惣左衛門に請い、庭を見せてもらうことにした。 庭は港に向かってやや傾斜が有り、四、五百坪あろうかという広さである。趣のある岩や手入れの行き届いた木々が絶妙に配置されており、贅を尽くしたものだった。眼下に、煙突から黒煙をたなびかせながら港を縫う様に出入りする船が見える。多数の大小貨物船などが無造作に停泊していた。樺太航路の中継地でもあり、活気ある小樽繁栄の象徴を表していた。 「多くの船舶が停泊している小樽港が一望でき、まるで港の主になった気持ちになるというのは、まさしくそのとおりですな」と鴻池は感に耐えたようにいうと、「だが、息子たちを失っては、それも虚しいものだよ」 惣左衛門は寂しそうに言った。 「お気持ちを察せず、失礼しました」 「いや、いい。とにかく徹底的に調べてくれ、私に出来ることがあればなんでも協力する」 「はい、その時はお願いします」 二人は稲荷が祀られてある祠のところに行った。そこには三基の鳥居が組み合わさったような三角形の朱色の鳥居が有り、その中に収められているかのように祠が造られていた。戸は閉められていたが、子供なら楽に三人や四人、入れる大きさだった。 「三本柱の鳥居とは珍しいですね、確か京都にあると聞いたことがあります。しかし鳥居の中に祠とは初めて見ました。存外大きくて立派なものですな、勧請された新井巻衛門さんは随分と信心深いお方のようだ」 鴻池は口ではそう言ったが、不思議な形の鳥居と祠の規模を見て単に商売の為だけではなく、他にもつと理由がありそうだと直感が働いた。 鴻池は扉を開けてみた。中は二段になっていて、上の段には神棚と神鏡などの神具が有り、下の段は両側に狐の石像が安置されているだけで正面に空間があるが、ごく普通のものである。周りを丹念に見回したが、特に変わった様子は見られなかった。何気なく扉を閉めようとした時だった。それまで薄曇りだったのであるが、雲が切れたのであろう、陽の光がわずかに差し込み祠の中を明るくした。 「おや、これは…」 鴻池は下の段に幾本かの毛のようなものを認めたのである。手に取ってみると、果たして長めの毛であった。それも女の髪の毛のようである。鴻池はそれを惣左衛門に示した。 「まさか、久子のものではないだろうな」 惣左衛門は昨日の、久子とたまの一時姿が見えなかったことが頭を過ぎった。 「たまの毛もあるかもしれない」と、惣左衛門自身が祠の中を丹念に調べたが、見つけることはできなかった。 「後で、登美さんとふきさんに祠に入ったかどうか、尋ねてみましょう」 鴻池の言葉で、惣左衛門はようやく中から出てきた。鴻池は先ほどのたまが久子の膝に乗った様子から、どのような目的かは分からぬが、彼女らだけであのようにして中に入っていた可能性があると感じていた。もしそうなら不可解な行動である。
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