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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

最終回   73
  それから半年ほど後の事である。その間に高田耀蔵が死んだが、鴻池は惣左衛門から葬儀の代参を依頼された。波次郎殺害の件は、二人とも墓場まで持っていくつもりである。更に惣左衛門の妻菊江が死んだ。惣左衛門は菊江に、磐乃のことは何も語らなかった。これ以上無用の思いを煩わせない為である。ただ、娘の久子が常の人になったことに、何故かという詮索する気力も無くなっていたのであろう、素直に喜び、久子の顔や黒髪を幾度も撫ぜながら、これで安心して死ねると言った。周りの人々は、菊江は心の病だからこれにより回復を期待していたのであるが、時すでに遅かったのである。菊江の最期の時、人払いをして一人惣左衛門が呼ばれた。そこで菊江は、久子のことはるいさんにくれぐれもお頼み申しますとお伝え下さい、とかすれ声でいい、きっと約束ですよ、と念を押し、やつれ落ち窪んだ目の底で惣左衛門をじっと見た。菊江はどのように調べたかは分からぬが知っていたのである。その時惣左衛門はつくづく女は恐ろしいと思い、磐乃のことが頭をよぎり、鳥肌が立ったと後に鴻池に告白をした。
宮下棟梁の手により、新しい離の間が完成した。年が明けたら、るいと伸吉が住む予定である。あの三柱鳥居と稲荷の祠は取り払われた。その後、特に祟などはなく、鴻池はこれでこの事件は完全に終わったと思った。
 それからも、惣左衛門は何かと鴻池を贔屓にしてくれた。知り合いの実業家にも声をかけてくれて、鴻池は結構多忙になり、事務員でも雇おうかと思うほどになった。
 そんな或る冬の日の朝のことだった。急ぎの仕事の依頼があったので、早くに事務所に入り、その準備をしていた時の事である。掛けていたラジオが七時の時報を告げた時、「臨時二ユースを申し上げます。臨時二ユースを申し上げます。大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は今八日未明西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」と日本放送協会の菅野守男アナウンサーはニュースを繰り返したのである。太平洋戦争勃発であった。鴻池は我が耳を疑った。あのような圧倒的国力の差がある大国アメリカを敵に回して到底勝てる訳がないと思った。だが、その後も戦闘状態を伝える二ユースが続々伝えられ、戦争に突入したことは、疑いの余地のないところとなった。鴻池は頭を抱えた。なんてこった、と何度も心の中で繰り返した。今後、どれほどの人が巻き込まれ死んでいくのだろうかと考えた。自然、鳥肌が立ち身体が震えてきた。その時、空山が言った、今を生きている人間の活力にはかなわない、と言う言葉を思い出した。磐乃の怨霊といえども、せいぜい数人の人間の命が失われるに過ぎない。だが、権力を握った何らかの意志と欲望を抱いた一部の人間たちの行為により、多くの関係のない人々が巻き込まれ死んでゆくのである。それは、破壊に破壊を重ね、国が焼き尽くされ焦土となるまで続いていくのだ。その時鴻池は、嘗てその瞳の中に吸い込まれそうになった深窓の令猫黒猫のたまの、美しい深緑の海に溺れてしまいたいと、本気で思い続けた。


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