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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第68回   68
梅奴に男の子が生まれ、波夫と名付けられた。当然ながら、波次郎は足繁く通うことになる。だが、賢く聡明な磐乃である。数年後の或る秋の日に磐乃から耀蔵に家に来て欲しいと電話があった。取るものもとりあえず屋敷に駆けつけると、磐乃が待つ応接間に通された。磐乃はソファーに座り、たまという名の黒猫を膝に乗せていた。久しぶりに会う磐乃は三十代半ばの女盛りである。円熟期を迎えた磐乃は神々しいばかりの美しさであった。憧れ続けていた耀蔵は会った瞬間、ひれ伏したい様な心境になったほどだ。磐乃が自分を呼んだ訳はすぐに察した。
「聡明な磐乃様のことです。波次郎の浮気に目を瞑ってきたが、相手に子供が出来たのを知ったのでありましょう。我慢の限界を超えたのかもしれないと感じました」
しかし、磐乃は耀蔵に対して、波次郎は何処、とは訊かない。だが、耀蔵は磐乃の前では蛇に睨まれた青蛙である。直ぐに額から汗が、ぽたぽたと落ちてきた。磐乃にじっと見つめられ、磐乃を苦しめている波次郎憎しという気持ちもあり、ついに堪りかねた耀蔵は、若松町の何処、何処に波次郎が居ると白状した。すると、磐乃は、そう、と言いながらも、何か突き抜けたような不思議な笑顔になった。そして、磐乃は突然屋敷を飛び出すように出て行ったのである。
「私は磐乃様の後を追いかけましたが、すでにお姿は見られませんでした。当然、家の場所は分かっておりましたから、そこに向かいました。着くと、家の後ろ側にある塀の方に行きました。聞き耳を立てて様子を伺っておりますと、波次郎と磐乃様の声が小さく聞こえてきました。梅奴さんのおろおろとした謝罪の声も聞こえていました。だが、波次郎が何か酷いことをいったらしく、磐乃様の悲鳴が聞こえたかと思うと、外に飛び出していく気配がしました。私も慌てて通りに出、走り去って行く磐乃様の後を追ったのです」
鴻池は磐乃の気が触れた瞬間だと思った。これが事件の始まりであった。
「駆け抜けていく磐乃様とすれ違った人々は、呆然と見ているだけでした。私も一緒に走るわけにはいかないので、どうしても遅れてしまいます。そのため一時見失ったりして、ようやく探し当てた時は随分暗くなっていて、熊碓海岸の外れを夢遊病者のように彷徨っておられる後ろ姿でした。近づき声を掛けても、乱れた服も構わずに漂うように歩いておられ、海に入ろうとするではありませんか。思わず後ろから抱き止めましたが、私が初めて磐乃様のお身体に触れたことになります。磐乃様はすらりとされた背丈のお方ですが、私は見てのとおり小柄で磐乃様より背が低いのです。振り返られた磐乃様は目が虚ろでありましたが、月明かりで青白く、凄惨ともいえる美しさでありました。私は思わず、耐え難い思慕の情が沸き起こり、磐乃様、とおもわず後ろから抱きしめました。だがその瞬間、磐乃様は崩れるように倒れ込んだのです。幸い、近くに無人の漁師小屋が有りましたので、そこまで抱きかかえるようにして連れて行き寝かせました。その時の磐乃様は精も根も尽き果てたような状態に至っていました」と言いながらまた涙ぐむ耀蔵を見て、鴻池は磐乃が狂女から一時的であるが我に返りつつあったのでは、と考えた。耀蔵は一旦自宅に引き返すと、リャカーに布団などを積んで熊碓海岸に引き返し、磐乃を東雲町の屋敷ではなく、随分と難儀したが、当時管理していた奥沢町の奥深くにある炭焼小屋に運んだのであった。父親の知り合いの老職人が、跡継ぎがいないまま亡くなったから空き家になっていて、人は滅多に往来することはない。そこで、磐乃様をこのように苦しめた波次郎には絶対返すまい、と自分に誓ったのである。炭焼小屋に着いた時、磐乃はすでに激しい疲労により虫の息といってよかった。わずかに、水を多少含む程度に飲むだけだった。すると磐乃は震える手で袂から翡翠製の深緑の数珠をとりだすと、「たま、お願い」と祈るように言ったということだ。それから磐乃は目を瞑ると、まるで抜け殻のような状態になったのである。
鴻池は磐乃の生霊が黒猫のたまの姿を借り、古平に向かったことを知った。


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