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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第55回   55
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疲れが溜まっていたのであろう、翌日の昼過ぎに起きた鴻池は、事務所で磐乃の遺品をあらためて検分していた。三柱鳥居が茶道の蓋置に姿を変えていたとは思いもしなかった、というのが鴻池の素直な気持ちであった。更に豊臣秀吉から始まり、江戸時代にキリスト教は弾圧され多くの純朴な日本人のキリスト教徒は悲惨な最期を遂げたが、ユダヤ・キリスト教徒は弥勒菩薩という時の権力者も手のだしようがない宗教上の権威を隠れ蓑にして、数珠と称したロザリオで堂々と祈り続けていたのである。国を滅ぼされ世界各地に散らざるをえなかったユダヤ民族の強かさを感じ、一時の権力者など、何者ぞ、という確固たる反骨精神を見た気がした。
 三柱鳥居も弥勒菩薩もかなり年代ものであるということが分かるものである。陶磁器で出来ている黒色の三柱鳥居は光沢があり美しく、茶道用よりはだいぶ大きい作りのようだ。木製の弥勒菩薩の顔は単に品が良いというだけでなく、慈愛の表情に満ち溢れていた。宗教にはさほど関心のなかった鴻池であったが、仏像本来の良さというものを認めざるを得ないものであった。この二点はどちらも遥かな年代を感じさせるものであったが、磐乃はどのように祈っていたのだろうと思った時、惣左衛門の屋敷の稲荷の祠が頭に浮かんだ。試みに弥勒菩薩像を三柱鳥居の正三角形の上から下ろし込んでみると、鳥居内に仏像がちょうど良く収まり、多分この状態で祈ったであろうと推察できた。
 磐乃が書き綴った文字や文章を見たとき、凛として自信に満ちた知的水準の高さを感じさせる筆遣いだと思った。ユダヤ教は厳格な教えと聞いていたので、磐乃はその影響を色濃く受けたのではないかと感じた。だが、磐乃の本性は妄執に取り憑かれた哀れな女である。自分の本質を漠然とながらも感じていたから、懸命に自分を律しようとしていたとも考えられなくもない。鴻池は旧約聖書については不案内であったが、モーゼの十戒と太秦の広隆寺の十善戒を比較したくだりを読んだとき、その同一性にあらためて秦氏がユダヤ民族の末裔であると確信したのであった。後は深緑の翡翠のロザリオが無いことが残念であるが、磐乃が失踪したとき肌身離さず持ち歩いていたとしたら、諦めるしかないことである。この三点で磐乃の魂を鎮めることに役立つよう祈るしかなかった。
 二日後、田宮惣左衛門の事務所に磐乃の遺品を持参して報告に向かおうとしていたとき、野上つるから速達が届いた。鴻池の手紙により、容易ならざる事であるから、つるの師である空山が直々に小樽に出向くというのである。また、宮下秀子の悪夢を取り除く為、空山自から認めた魔除けの霊符も入っていて、直ぐに宮下家の室内に、惣左衛門の家の方角に向かって貼っておくようにというものであった。三日後、二人は小樽に着くという事である。空山自らが小樽にやって来るというのはどういうことだろうかと、鴻池は思った。野上つるでは磐乃の霊魂を鎮めることは出来ないと空山が思ったのか、それとも、より深い訳でもあるというのか、鴻池には分からない。ただ、どう転ぶか分からないが、何らかの決着が見られる事は確かだと感じた。鴻池はこの数日間の出来事で、今、人生において一番充実していると実感していて、例えこの身に何が起ころうとも構わないとも考えるようになっていた。ある意味、恐怖とわくわくとした気持ちが相混ざっているともいえた。


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