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作品名:深窓の令描 作者:じゅんしろう

第51回   51
生憎、古平行きの乗合馬車もなければ空の荷馬車も無かった。余市港から古平港まで渡航する漁船でもあればと考えたが、鴻池は船に弱く直ぐ船酔いする。やむなく徒歩で行くことにした。ただし、古平までは十五キロメートル程の道程である。峠越えがあるので、古平の禅源寺に着くのは昼頃になることを覚悟せねばならない。
余市川に架かる橋を渡り街の中心を離れると閑散とした道を上って行く。山道は涼しいのであるが、時折顔を出す陽の光が鴻池の身体を暖め、出足平峠の頂きに到達したときは額に大粒の汗が浮き出ていた。ハンカチで汗を拭い一息を入れていると、一台の馬車が鴻池を追い越して行き少し先で止まった。馭者が振り返り鴻池を見ていたので寄って行くと、四十歳ぐらいの男だった。男が、何処までと訊くので、鴻池が、古平の禅源寺までと答えると、後ろに乗れといった。美男子であるが寡黙な男のようだ。荷から推察すると郵便物や新聞類を運ぶ馬車のようである。鴻池が馭者の直ぐ後ろに乗ると、馬車は素早く動き出した。峠を下りきった所から右手に海を見ながらの道行きである。前方遠く古平の街並みが望めた。今は鰊漁の最盛期である。定置網の漁で海岸沿いは漁船や運ぶ人々でごった返しているはずだ。実際、その辺りは船や人々がうごめいている様子が小さく見えた。
「浜は鰊漁で盛況のようですね」と鴻池が馭者に声をかけると、わずかに頷くだけで、返事は返ってこなかった。結局、郵便局前まで送ってくれたが、まともな会話というものは無かった。鴻池がお礼を述べると、いえ、といってわずかに笑顔を見せただけだった。悪い人ではないことは物腰で分かったが、心に何か鬱積したものを持っているようだ。郵便局から禅源寺までは目と鼻の先である。境内は浜の活気と比べて、嘘のような静けさであった。訪いを請うと、四十歳くらいの物静かな僧侶が出てきた。鴻池が、「昨年の秋訪れた鴻池という者ですが、羽倉磐乃さんについてお尋ねしたいことがあり、ご母堂様にお目にかかりたい」と名刺を渡し用向きを告げると、僧侶は、おやっ、という顔をした。鴻池はここに至って無用な隠しだてはせず、ある程度事実を話し正面から当たってみようと考えていた。僧侶が奥に引っ込み、少し経って老婦人と一緒に現われた。
「やはり貴方でしたか、お久しぶりでございますね」
「昨年は五百羅漢図の案内をして頂き有難うございます。今日来たのは羽倉磐乃さんについて是非とも、お聞きせねばならないことが生じ罷り越しました」と鴻池が用件をいうと、直ぐに庭に面した座敷に通されたが、「当寺院は羽倉家と浅からぬ縁が有り、拙僧は順慶というものですが、同席させてもらってもよろしいですか?」と僧侶が了解を求めてきた。
「勿論です、昨年は身分を明かさず失礼いたしました。田宮惣左衛門さんという方から依頼され、嘗て羽倉磐乃さんも住まわれていました屋敷について、調査しておりましたら思いもかけない事実が浮かび上がり、ご母堂様にお尋ねしなければならないことが出てきたのです。かなり不可思議なこともあり、これから話すことは、俄かに信じられないこともあろうかと思いますが、宜しいですか?」と鴻池が何の外連味もなくいうと、二人は予感めいたものがあったかのように黙って頷いた。その後、鴻池は磐乃が失踪した後、長きに渡って、新井巻衛門と田宮惣左衛門の二家族に起こった屋敷での不可思議な出来事、特に磐乃の霊魂の仮の姿であろう黒猫のたまのことを詳しく話した。そのたまによって、嘗て巻衛門の娘貞子が、今は惣左衛門の娘久子が取り憑かれている。この状況を何とかしなければならない。鴻池のその言葉に、老婦人と息子の僧侶は驚きの表情を浮かべ、互いの顔を見合った。更に、三柱鳥居がある稲荷の祠で祈るらしいことから、磐乃が秦氏に伝わるユダヤ・キリスト教の伝道者ではないのかという件になると、老婦人は思い当たることがあるのか、大きく頷いたのであった。但し、惣左衛門の二人の息子が夭折したことは、単に病死とし、少しぼかして話した。磐乃をその犯人扱いにしては、信奉する老婦人に拒否反応されては困るからである。


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